« 2005年12月号 | トップページ | 2006年2月号 »

2006年1月号

2006年1月号の内容に対する質問はこちらにどうぞ

« 2005年12月号 | トップページ | 2006年2月号 »

コメント

1月号について
プラトンが考えるような意味における<真>は、同時に不動の<真>ですが、それはフィクションが求める<動き>とは真っ向から対立するものでしょう。これがホメロスが神々や英雄を、人間より何程もすぐれておらず、その様態において<真>ではないものとして書かざるを得なかった理由です。   (P241上20)

とあります。これはホメロスが記述の運動を必要としたために、人間臭い神や英雄にしたということだと理解したのですが、ホメロスの生きていた時代の神々はソクラテスの神々同様に完全無欠な存在だったのでしょうか。そもそもホメロスの時代の神はプラトンの言う<真>の神ではなかった可能性もあると思うのですが。

投稿: Ooh | 2006/05/14 12:31

これは全くおっしゃる通りでして、プラトンは宗教改革と言いますか、ある種の浄化を計っています。これは同時代のアテナイ人の大多数からしても少々特殊だったでしょうし、『イリアス』『オデュッセイア』を集合的に形成していった吟遊詩人たちとは明らかに異質なものです。

ただし、吟遊詩人たちが何故、プラトンが目くじら立てて非難するような様態を神々に与えたのか、は、それとはまた別の話になります。もし彼らが、どうしても話のこの箇所でこういう動きをさせたい、させなければならないと考えなかったなら、神々がどういう存在と規定されていようと、オリュンポスの山の頂に鎮座ましましてプラトンをも満足させるくらい立派な不動の姿勢を取らせていたでしょう(その方が手間も掛かりませんし)。ただ、彼らの芸人根性はどうしても、プラトンが真ではないが故に不許可と考えるような振舞いの数々を神々や英雄たちにさせざるを得なかった——これは、彼らが即興で、聴衆の反応を見ながら語って聞かせているという状況を想定していただければ、一層、理解しやすいと思います。

AなるものはAである(とされている)からAとして語る、ではフィクションになりません。フィクションにおいては、Aが本来Aであることは周知の事実だとしても、その方が面白ければA'どころかBにもなりCにもなります。時々はAがAとして居座っていることもありますが、Bでもあり得るしCでもあり得る中での偶発的なAは、実はもうAとしての内実を失っている。これが、どれほどフィクションで真を語ろうとしても絶対に語れないし、語ったことにはならない理由です。

投稿: 大蟻食 | 2006/05/27 13:09

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 2005年12月号 | トップページ | 2006年2月号 »