トップページ | 2005年9月号 »

2005年8月号

2005年8月号の内容に対する質問はこちらにどうぞ。

トップページ | 2005年9月号 »

コメント

えっと早速いくつか質問を。
①「芸術作品を享受するとは、こういう体験をすることです。」(p10上段11行目)で始まる段落で書かれている「作品の各部分からの個々の刺激を受け取り、次にそれらを組織化する論理を探る。論理的に組織化されたものはより複雑な刺激の総体として認識されることになり、そこからさらに個々の刺激(の必然性)に還ることで享受者はより研ぎ澄まされた快を味わう」というサイクルそのものを「芸術作品の享受」と考えていいのでしょうか。

②「作品は、何よりまず表現者と享受者の遊技的な闘争の場であり、…」(p18上段8行目)の段落で書かれている、表現者ー享受者あるいは享受者ー享受者間で戦わせるべき“判断(美的判断)”と必然的に分裂するべきものとされている“審美的判断”(p17下段14行目、p19上段5,12,14,15行目)は同じものと考えていいのでしょうか。

③「印象派」「フォーヴ」の例(p18下段11行目)から。評価の前提となる作業(=見る・解釈する)は完璧だったが判断においては後世のそれに競り負けたとあります。ここで使用される“判断”と“美的判断”あるいは“審美的判断”は同じようにも見えますが違うようにも思えますがどちらなのでしょうか。

④「刺激を組織化する論理の構築あるいは発見」に基づく享受→「審美的判断」→「評価」という流れであると考えてよいのでしょうか。これでよいというのであれば彼らが競り負けたのは判断ではなく評価ではないでしょうか。あるいはそもそも判断と評価はほぼ同じもので区別は必要ないのでしょうか。

⑤最後はちょいへぼい質問でスが。オスカー・ワイルドは、批評家の意見が一致しない時、作者は自分自身と一致していると言ったということですがこの部分だけだと2つの意味があるように見えます。つまりオスカー・ワイルドは意見(=審美的判断?)が分かれるように作品を作ったという意味とオスカー・ワイルドという人間がそもそも多様で矛盾ももった人間であるという意味です。前者の意味で使われていると思うのですが、その場合、批評家の意見が一致するような(ヘボ)作品の作者は自分ではないという意味にもなります(ギャグ?)。後者の場合は意図の有無はともかく作品に自分自身の多様性が反映されているという意味です。できればこの発言の前後が、文脈が判るような説明をいただけませんでしょうか(文献名でも)。

投稿: ooh | 2005/08/12 19:57

以下、回答になります。
① その通りです。
② 同じものです。
③ 「審美的判断」「美的判断」「判断」すべて同一です。
④ 「判断」「評価」は同一のものとして使っています。
⑤ オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』の前書きです。ちなみにこの前書きは「道徳的な書物とか不道徳な書物とか言うものは存在しない。書物は良く書かれているか、悪く書かれているかである」で始まります。『ドリアン・グレイ』=不道徳な書物:ワイルド=不道徳な作家という批判に苛立って、後の版から添えられたものですので、そういう解釈も十分に可能ではあるでしょう。ただし、作者とされる人物の人格が作品に反映されるというセオリーを、本稿は採用していません。

投稿: 大蟻食 | 2005/08/13 00:19

 質問させていただきます。
 先生はご自分の作品を、別の言語で書かれたテクストの翻訳という意識で書かれていると思います。
 寡読にして、先生の作品はまだ五作(天使、バルタザール、1809、戦争の法、鏡の影)しか読んでおりませんが、記憶する限り、これらの作品中ではアガメムノンの「ぽぽい、だぁ」にあたる、原語で持っていた意味が潰れて単なる音声と化している箇所は見られませんでした。先生の行われている、別の言語で書かれたテクストの翻訳として小説を書くというスタイルは、純粋な翻訳とはポジションの異なる作業であるためでしょうか、それともそうした表現を行うのに適切なタイミングが執筆中に訪れなかったためでしょうか。
 また、ジェルジュの名前の表記の変化は「おぉポローン」に近い現象だと思いますが、もし仮に先生ご自身の手で、もしくは指導の下に「天使」がフランス語やドイツ語に訳されたとすれば、これらの表記は統一され、発話者の違いから読者が発音の差を読み取る、といった形になるのでしょうか。
 たとえば、発声された音の違いを書くという作者の意図に、テクスト以上に忠実であろうとするなら、文章中にそれがどういう発音であったかを示す訳というのも可能性として在りうるのではないか、と考えるのですが、しかし、それは既に翻訳ではないのでしょうか。
 8月号の内容に対する質問とは言えない内容の質問であるかもしれませんが、読んでいて気になりましたところです。よろしければご回答お願いいたします。

投稿: しくじったアッパーカット | 2005/08/15 01:46

まず最初にお断りしておくなら、書き手がどういう意識で作品を組み立てたか、は、読み手には全く関係がなく、読解を拘束することもありません。書き手の作品に関する発言や第三者の証言から作品を解釈するのは、基本的には音痴の方法論であることをご承知下さい。また、私の作品は日本語で書かれています。翻訳のように見えるとしても、これは厳然たる事実です。

その上で申し上げるなら、

1. 『アガメムノーン』を引用して説明したような「意味が潰れて」音だけがあるような記述は、確かに、したことがありません。ただし、『バルタザールの遍歴』には、フランス語の慣用句を直訳して、日本語としては意味の取りにくい書き方をした箇所がありますし、『天使』はやや離人症的な記述を心掛けています(読んでいて違和感やストレートな感情移入の困難があるとすれば、そのためです)。いずれも、意味とは直結しない言語使用です。
 日本語の作例としては、笙野頼子氏の諸著作にある音声表記の歪みの方が適切でしょう。「小説のストラテジー」は、最終的には、笙野氏の『水晶内制度』の<楽曲分析>を行うことになります。

3. 『天使』の場合、名前の表記の変化は使用言語に加えて、人物間の心理的な距離の指標でもあります。何語に訳したとしても、表記を統一するのは望ましくありません。
 大体、そういう統一は滅多に見たことがありません。まさかHansをJeanとする訳にもいかないでしょう。『悪霊』のスタヴローギンが「ニコライ」であるか「ニコラ」であるかは重要なことですし、『戦争と平和』のベズーホフが「ピエール」なのは理由のあることなので「ピーター」とやっては拙いでしょう。アメリカのエンターテインメントでも、ある人物の名前がスペイン語表記されるか英語表記されるかは、その人物のポジションを示す上では重要なことの筈です。

4. 「テクスト以上に」の意味がやや取りにくいのですが、どういう音であったかを示してなお、記述の動きを大幅には変えない方法があるなら、それも一案です。ロシア文学の中のフランス語がどう日本語訳されているかをご覧になることをお勧めします。総ルビはかなりきついです。原文中の外国語はカタカナ表記というのが、一般的かと思います。

 『アガメムノーン』の久保訳の当該箇所は、語義ではなく音に忠実に訳して機能する稀な例です。ただし、たとえば『魔の山』のペーペルコルンの発話をそのまま音にするのは非常に困難ですし、望ましくもないでしょう。訳者の腕の見せ所です。音では必ずしもありませんが、言語としての機能を喪失するぎりぎりの訳を試みた訳としては、ナボコフによる『エウゲニー・オネーギン』の英訳と、クロソウスキーによる『アエネイス』の仏訳があります。

翻訳に関して個人的な見解を述べるなら、文学作品の訳しすぎは拙いだろうと思います。極端な長文は必要があって極端な長文になっているので、可能な限り切るべきではないし、曖昧な箇所は必要があって曖昧なので、絞り込んではっきりさせるべきではないし、解説を折り込んで訳文を作るのは、意味は飛躍的に通りやすくなるとしても、慎む方がよろしいのではないかと。意味もさることながら、原文の「運動」と「色彩」を生かすことを翻訳者の方には考えていただきたいですし、あえて意味を犠牲にする勇気も、時には必要だと考えます。

投稿: 大蟻食 | 2005/08/16 00:47

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 2005年8月号:

トップページ | 2005年9月号 »