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2005年9月号

2005年9月号の内容に対する質問はこちらにどうぞ。

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コメント

とりあえず質問は一つだけですが、よろしくお願いいたします。

p11下段15行目からの一文について

アイスキュロスの『アガメムノーン』は論の向こう側に想定されるような確定済みの実体ではなく、…

とあります。“確定済みの実体”というのはこの文章の最後に出てくる“知覚される運動”との対比であって「殆ど物としての作品」という意味であろうと思うのですが、ここにある“論”とは何を指しているのでしょうか?

投稿: ooh | 2005/09/09 19:54

立て続けで申し訳ありませんが、↑よりも大事な疑問が浮かんだので質問させていただきます。

読み始める最初の瞬間から、俯瞰的な視点を持つ必要があるからです。(p13上7行目)

とあります。この “俯瞰的な視点を最初から持つ” ということは、刺激の組織化する論理をも最初から探り出そうとすることなのでしょうか。それとも、知覚を鋭敏に保ちながら読み進めるが論理探しは読み終えてからということなのでしょうか。

組織化について考えながら同時に知覚を鋭敏に保つことはとても難しいと思ったのです。これが一般論でなく、書き手あるいは表現者同士の勝負ならばそういうこともあるんだろうと思うのですが。

URLのほうには長々書いたのですがコメント欄用に上手くまとめられませんでした。判りにくくて申し訳ありませんがよろしくお願いいたします。

投稿: ooh | 2005/09/11 17:55

すいません。ちょっとばたばたしていますので、コメント、もう一日待って下さい。

投稿: 大蟻食 | 2005/09/12 10:33

もちろん何日でも構いませんまったく。とくに一個目のはスルーして頂いたほうがありがたいです。はずかしいので。

投稿: ooh | 2005/09/15 17:48

回答、遅くなってしまい、申し訳ありません。

まず最初の、9/9のご質問ですが、そちらのURLの9/10の記載にある通りです。印刷された字面は作品ではありません。それが読解され、いわば「演奏される」ことではじめて作品になります。

二番目の、「俯瞰的な視点」の問題ですね。刺激を組織する論理は、最初から手探りされるものだと思います。第一回の、「カナの婚礼」の辺りを参照して下さい。また、認識の自然な流れとして、我々は最初から個々の刺激を受け取るや、ある論理性を具えた構造に組み上げ、その認識を個々の刺激にフィードバックしながら、より大きい全体を想定するものでしょう。この過程で「予測」という動きが、当然、起る訳ですが、これについては次々回辺りに扱う予定です。

初読で完璧に読む、というのはもちろん理想論ですが(たとえば、正直な話、「水晶内制度」の第一章の構成は初読時には読み切れていません)、不可能ではありません。読み手の技量とテキストの難易の関係で決まる問題でもあり、だからこそ小説を読むのは面白い訳です。また、読者の技量が職業的表現者より低くていいということはありません。それでは書いていて全然面白くありませんから。

投稿: 大蟻食 | 2005/09/20 16:14

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