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2007.02.06

17.「わたしを離さないで」再び

From: ともたろう
Date: 23 janvier 2007 15:08:40 HNJ
To:
Subject: 「わたしを離さないで」について
 
はじめまして、大蟻食様。愛読させていだたいてます。

エモくて傑作という世間の声にも(こちら寄りですが)、エモを抑制したエモを拒絶されている大蟻食様にも違和感を感じたために、「小説のストラテジー」は未読でありますが今回キーボードを叩くことにしました。
とりあえず、例の愚メールにならないために自分はどう読んだか、ですが、「わたしを離さないで」のテーマは二つあります。「運命」「記憶」です。端的に言えば、”心の中で消えつつある古い世界”から離さないで、と懇願する少女のかたちが「運命」しかし、その解釈はその少女のものとズレている点が「記憶」です。つまり、ホグワーツという狭い時空間から、どうしようもなく一本道な「運命」を抜け出た、赤ん坊の回想がこの小説のイメージだと言えます。迷路の中の鼠ともまた違うのではないでしょうか。まあ、この赤ん坊が産み落とされる場所が、ノーフォークという遺失物置き場というのも非常にエモなんですが。
クローン技術や臓器移植といった問題は、このテーマを描くための(かなり強引な)装置でしかないのです。そもそも、ちょっとした社会性どころか、「わたしを離さないで」からはどんな立体的な社会もたちあがるようには思えません。この点、解説における柴田元幸の”遺伝子工学における倫理”云々といった類のことも全くあてはまらないでしょう。
この小説における「記憶」ですが、その不確かでいり混じるイメージや他の提供者たちの記憶が急速に褪せていくことは語られつつも、キャシーが回想する記憶は”黄金色のとき”を鮮明に保ち続けたままです。だからこそ、最後の場面で彼女が妄想(のような回想)を一度で終えることが、「わたしを離さないで」という回想(のような妄想)をこれでやめることにつながって、読者の胸を打つ(ようないいエモになる)んじゃないでしょうか? 
もちろん、文学的な試み(私の感覚では「かっこよさ」)という点では比較にならないとは思いますが、「わたしを離さないで」を単純な難病悲恋小説と読むことは、「ロリータ」を純愛小説として読むような危うさがあると思います。
以下、雑感です。
文章が詰まんない、というのは全く同意です。あれは、翻訳のせいではないのですか?あの語りとか「癇癪玉が破裂して」とか「先生の元気溌剌ぶりが」とか何と言うか、いい意味で印象に残った文章というのが皆無ですね。「動物の絵を持ってって自由を貰おう」みたいな幼児性も、やっぱり鼻にはつきました。でも、私も結構エモアレではあると思うんですが、それでも読めるものって結構あるんですよね。SFでいえばイーガン。
長々とやって結局、『「わたしを離さないで」はエモである』という主張にしかならず、送信をためらいましたが、ああいう読者ばかりと思われては困るので、送らせていただきます。

きちんとした文面でのご意見をいただき、非常に嬉しく思っております。

まず最初に、多少の誤解があると思いますので、「エモ」に対する私の見解を説明させて下さい。私は小説におけるエモーショナルな刺激を全否定するものではありません。エモーショナルな刺激と言っても、怖がらせるもの、笑わせるもの、劣情を刺激せしむるもの、崇高さを感じさせるもの、愛しいもの等々、色々あり、泣けるもの、もそうした刺激のひとつです。小説がそういうものを完全に欠いて成立する例は殆どないと言っていいでしょう。ただし、それはあくまで一篇の小説を成立させる要素のひとつであり、謂わばパレットの上に絞り出した絵具にすぎません。小説家の仕事は、そうした絵具を使って一枚のタブローを描くことにあります。可愛いピンク色の絵具をチューブから出してそのまま塗りたくったものを、ね、可愛いでしょ、と言って差し出されても困る、というのが、簡単に言うなら、私のエモ小説批判です。あるタブローにおいて、同じピンク色が凄まじい美しさで輝いて見えることは当然ある訳ですが、その為には明度彩度を調整し、他の色彩との対比で更に調整を加え、全体の構図の中に的確に置くことが必要になってきます。エモ小説、ないし、どこかで言われていた言葉を借りるならサプリメント小説の困りものな点は、そうした造形への意思(或いは造形しないという意思)はうっちゃった、綺麗な色を塗りたくれば綺麗な絵になるという素朴な思い込み(或いは、綺麗な色を塗っておいてやれば受けるんだからそれでいいんだよ、というニヒリズム)であり、更にそれを綺麗だと言って喜ぶ素朴な読者が山のようにいるところです。私がエモに関してひどく口うるさいのは、放置しておくと小説というものがどうしようもなく単純で平板な代物に還元されてしまうという危機感のためです。

もちろん、イシグロがエモーショナルなものをこれ見よがしに垂れ流しにしたかといえば、それはしていないと言わなければなりません。むしろ『わたしを離さないで』は押さえ気味に語られてはいます。ただし、その抑制が垂れ流しにも増して読者のエモーショナルな反応を煽ることになっていることは見落としてはいけないでしょう。語り手が静かに語れば語るほど、読み手はその背後にある情動を推察して反応する訳で、これは多少洗練された書き手なら当然心得ている「泣かせ」の技術です。問題はその後にあります。つまり、イシグロがこの巧みな「泣かせ」から何を引き出したか、「泣かせ」を越えた作品を実現できたかどうか、です。

ナボコフの『ロリータ』は、極端に単純化して言うなら間違いなく純愛小説であり、その純度を上げるためにペドフィリアという設定まで持ってくる訳ですが、同時に、異様に屈折し分裂した語り手を置くことで(たとえば語り手は、気が付いていないふりをしながら、ドローレス・ヘイズや母親シャーロットの心情を正確に語ります——ナフィーシーが言うような被害者としてのドローレス像は全て、ハンバート・ハンバートの語りを通して見えてくる訳で、そこを見落としては『ロリータ』の何を読んだことにもなりません)、その純粋さはほとんど怪物的なものに膨れ上がり、作品はこの怪物と語り手とのプシコマキア(魂の戦い、とでも言いますか)の様相を呈してくる訳です。『わたしを離さないで』がエモを通じてそうした域に達しているかといえば、これは疑問だと言うしかありません。むしろここで追究されているのは純粋にエモーショナルなものの提示であり、その意味では、非常に綺麗なお話になる筈だったもの——なったかもしれないもの、ということになるでしょう。

なったかもしれない、というところが、この小説の二番目の問題になります。お話としては確かに、寄宿舎学校という黄金の過去から否応なく追い立てられ、荒寥たる死に向かって行くという直線的な運動が抽出されるとは思います(「迷路の鼠」が多少の誤解を招いたことはお詫びします——私としてはあまりにも受動的で、少し知能に難ありかとも錯覚しかねない「運命」に対するあり方をそう喩えたつもりだったのですが。産道と赤ん坊のイメージは非常に面白いものですから、少し長めの考察を書いてみてはいかがでしょうか)。ただし、あちこちの感想でも散見されるある弱さが、この運動を著しく平板な、魅力のないものにしてしまったことは指摘せざるを得ません。その弱さとは、背景のシミュレーションの弱さです。

クローニングも臓器移植も、SF的ガジェットというにはあまりにもすぐそこまで来ている、『ニューズウィーク』あたりの先端科学特集に出て来かねない技術であり、この小説の背景にあるのはむしろマイケル・クライトンあたりが書きそうな世界です。ただし、ろくすっぽ小説になっていない小説仕立ての情報提供を書くクライトンではありますが、この小説と同じ話を書くならどれくらい細かい政治的・社会的・文化的シミュレーションを行うか、は容易に想像が付くでしょう。上下二巻必須、というところです。それだけのダイナミズムを伴う変化が、本来は、この小説の背後にあるはずです。

もちろん、それを端から書いたのではまるで小説にならず、つまりはクライトンにしかならない訳ですが、よしんば一切書かないとしても、書き手の頭の中では同等のシミュレーションは済んでいなければなりません。語り手の生活圏がどれほど狭く、外界に対する興味がほとんどないとしても、社会全体のあり方は否応なしにその生活の隅々に、本人も気が付かない間に浸透しているものであり(この状況では特に)、何より、小説の記述はそうした場所から汲み上げられてくるものだからです。『日の名残り』は歴史上実在した社会を背景にすることによって、そうした薄さを免れていた訳ですが、そこからどれだけの記述が汲み上げられてきたかを考える時、この小説における背景のシミュレーションの薄さは小説として致命的だということになるでしょう。シミュレーションの薄さは、そのまま記述の薄さに繋がってくるものです。

『わたしを離さないで』にしばしば付される疑問の大半はそこから来ていますし(何故逃げようとしないのか、という、単細胞だが根本的な疑問まで含めて)、そこからはまた別の疑問が浮かんでくることも否定できません。即ち、クローニングと臓器移植技術の、作中にあるような実用化が社会全体に齎す筈の大きな変化をきちんとシミュレートした上で物語や記述に反映させるつもりがそもそもなかったのだとしたら、そうした設定は、取って付けたよう、どころか、本当に取って付けたものなのではないか——つまりはクローニングと臓器移植技術の行く末に予測される倫理的難点を扱っていますよ、という、ニューズウィーク的識者向けの釣りに過ぎなかったのではないか、という疑念です。ともたろうさんは本質的なものとは関らない瑕瑾と考えておられるようですが、この種の疑念は小説の美的な側面にとっては大きな傷になります。加えて言うなら、取って付けたような釣りに小説の設定を委ねるのは間違いです。

(もっとも、この手の釣りを文学性と勘違いする読者は少なくありませんし、釣りをきちんとシミュレートして記述の中に丁寧に汲み上げた場合には、恐ろしい話ですが、読者の大半はそこに釣りがあったことさえ気が付かない傾向があります。故に、最も効果的に釣るには最も取って付けたようでなければならない、というのは、悲しい話ですが、事実です)

その結果、最も深刻に損なわれてしまったのは、悲しく美しいお話にするためには不可欠だった学校時代、ということになるでしょう。と言おうかそもそも、学校を舞台にした小説、特に生徒が語り手という小説は、余程のことでもない限り、書いてはならないものです。第一に、学校という場所は社会的な多様性と厚みをほぼ完全に欠いており、第二に、社会的な多様性と厚みを欠いた場所には社会的な多様性と厚みを欠いた人物しか登場せず、第三に、そうした場所と人物を使って造り出せる造形は否が応でも単調にならざるを得ず、第四に、それをろくな社会経験も言語使用の経験もない語りによって語るのでは、これはもう途中で投げるか寝るかしかない代物になってしまうことは最初から明らかだからです(ただし、こうした諸点を逆手にとって書くことは可能でしょう——これがつまりは「余程のことでもない限り」です)。

通常の学校以上に社会的な厚みを欠いた特殊な寄宿舎学校の生活を美しい記憶として振り返る『わたしを離さないで』が、文章からしてひどく退屈になってしまうのは、と言う訳で、致し方のないところです。執事語の屈折が幾らかの刺激になった『日の名残り』とは異なり、学校生活とその後の看護人の生活しか知らず、格別の文学志向もない語り手が自分の経験を語るのでは退屈にしかなりようがありません(イシグロの文体にもっと積極的な魅力があれば多少は違っていたのでしょうが)。背景が、現実世界並みとは言わないまでも、きちんと水準以上に作り込まれ、そこから様々な細部が引き出されていれば、それでもまだ良かったのでしょうが、上でも述べた通り、この小説ではそうはなっていません。時折学校の本来の機能に関る出来事が割り込んでくる以外は、例によって例のごとく退屈で凡庸な学園物の紋切り型を繰り返して行くに過ぎません。

そこから先は、作品から少し離れた、受容の病理の問題になります。

かくも凡庸に語られた凡庸な学園生活が何故、多くの人に対してこれほどの魅力を発揮するのか。ごく雑に言ってしまいましょうか。『ハリー・ポッター』でも証明された通り、学校が出て来さえすれば、何故か一定の読者は牽引できるのです。寮がついていれば尚更です。まあ、「萌え」の問題だと言ってしまっていいでしょう。この小説の相当部分は、前に言ったような薄さをそうした読者の機械的な反応に寄り掛かってしまっているように思えます。読者である我々は、既に数多のフィクションで条件付けされてしまっているので、書き込みが多少薄くとも、パブロフの犬のごとく、あるモチーフを出されたら泣いたり笑ったり怒ったり萌えたりする訳です。エモが困る、というのはそういう問題でもあります。いったい我々は(自分を除外するつもりはありません)どこまで飼いならされれば気が済むのか、と。今日の文化は、我々がより低コストで大量生産される文化的財をより多く消費するよう我々の感性を飼いならす方向に向かっているとしか私には思えないのですが(そしてそうした馴致を経たところからしか何も造り出せないとしても、文学という以上、造り出したものには、内なる馴致と格闘した痕跡くらいはなければならないとも考えています)、イシグロの作品はまさにそうしたところにぴったりと嵌まっている訳です。たとえばあの、語り手が「わたしを離さないで」を聞きながら踊るあの場面は、幾らなんでもあんまりではないでしょうか。あそこまで醜悪なポーシュロスチはちょっと見たことがありません。イシグロで行きます、と書評の担当者に宣言した後でなければ投げ出していたでしょう。

もうひとつ、歯を食いしばって最後まで頑張ったけど本当は投げ出したかった理由があります。あの出口なしの宿命に対する従順さという奴がどうにも気色悪い。何といおうか、べしゃべしゃぐにゃぐにゃしたものを手探りでいきなり掴んでしまったように気色悪い。そしてこの気色の悪さというのが、新海誠の『ほしのこえ』を見た時に感じたのと同じ気色悪さなのです。あれもまた、ここまで指摘してきたような、事前のシミュレーションの努力を徹底的に欠いた薄っぺらで異様に小さな世界とか(八光年の彼方まで軍隊送ってるのに、バス停はあれで、携帯はそれか)、出口なしに対する無気力さとかがそのまま適用できる奇怪な作品ですが、この気色悪さは一般には非常に好ましいと感じられているようです。2ちゃんねるのイシグロのスレッドには、これはジャンルだから、と書いておられた方がいたと思いますが、まさにその通り、『わたしを離さないで』はある種のジャンルのものと見做して始めて成立するものであり、普通の小説としては到底認めがたいものです。そして何より驚きなのは、そうしたジャンル(「セカイ系」ってこれかね?)に、かくも多くの人が、かくも容易に、しかも世界同時多発的に嵌まっているという状況でしょう。

いずれにせよ、一篇の小説に対する見方は様々です。私がこう言ったからといって、誰の読みが否定される訳でもないことをお忘れなく。『わたしを離さないで』が、暗い日曜日現象で持ち上げられた凡庸な失敗作なのか、それだけには止まらない傑作だったのかが判明するには、最低でも五年は待つ必要があるのではないでしょうか。

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