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2007.02.06

16. 『天使』その他の問題について

サンアンドレアスでうろうろしてて遅くなりました。文句の時間です。

From:
Date: 17 janvier 2007 13:51:25 HNJ
To: monk@zag.att.ne.jp
Subject: いくつか質問させてください。

こんにちは。
先日はこちらのブログでファンサイトの方をご紹介頂きまして、大変ありがとうございました。
今日はファンとしていくつか質問させていただきたいと思います。
使っておられる歯ブラシの色は何ですか?
冗談です。


歯ブラシはブラウンの乾電池式(うぃんうぃん言う奴)なので、特に色では選んでいません。ただし、プラスチック製品に関しては、デザインにもよりますが、赤いのが一番好ましいと思っており、従って手動歯ブラシを買う時は赤であることが多いです。

という具合に、今回はちょっと分けて回答させていただきます。

1、ストーキング掲示板の方にも書いたのですが、『天使』についてです。
ファンとして恥ずかしいことに、私は天使をそれまでの作品のようには愉しむ事ができませんでした。
何度か読みましたし、ストーリーを愉しむ事は出来るのですが、なんというか無愛想?という印象が強くて、それ以前の作品を繰り返し読む時に味わったような快楽を感じる事が出来ませんでした。
大蟻食さまはここに至ってさらなる読者の篩掛けをなさったのかなと思いました。
作品は楽譜であって、それを読者が「演奏」することによって初めて芸術としての価値が生じるという見地からして、私はどうもヘボ演奏者のようですが、以前大蟻食様が『戦争の法』や『鏡の影』についてなさったような「ヘボ演奏者へのアドバイス」をしていただければ大変ありがたいです。
大蟻食様がおっしゃっておられたように、「離人症的記述」あるいは文体の問題かなとも思いますが…。

作者自身が自作について語るのは野暮であるばかりではなく、何かしら特権的なものと錯覚されがちな作者の意図なるものが、作品を死んだ、動かないものにしてしまう危険が大である、ということをご承知頂いた上で、飽くまで一読者として(それはまあ、何が何処にあるかは多少良く知ってはいますが、書き終えた上は、それ以上の立場にはおりません)ひとつの可能性を提示させていただくならこういうことになるでしょう。

『天使』『雲雀』は、言葉と言葉の向けられる対象の乖離が、それまでの作品と比較しても(忘れていただきたくないのは、『戦争の法』以外の全ての作品にこうした乖離は存在しています——日本語で語られる筈のない事柄を日本語で語るのですから、作中で「パイプ」と書かれている場合も、それはパイプではありません)、極めて大きくなっています。読者が読む言葉と記述される事象との間に乖離があると同時に、作中の感覚を持つ人物と世界の事象との間にも乖離があり、視点を彼らに置いた記述では(小説の大部分がそうだということになりますが)、この二重の乖離を経た記述を読むことになります(見る、聞こえる、目を凝らす、触れる、等、最も直接な知覚に関する記述がその典型でしょう。ただし、どの程度の乖離かは人物によって異なります)。

特に二番目の乖離に付いては、『天使』(文庫)のp.38とp.192に注意していただけると多少ご理解いただけるのではないかと思います。特殊な感覚によって世界を知覚しながら、それを整理し、再構成し、認識する枠組みとしては、そうした感覚を持たない経験から形成されてきた言語と世界観しかない、という状況をシミュレートするのはなかなかに愉快でした。効果の程には確信がなかったのですが、web上の感想で、無彩色の世界とか、寒い季節には読みたくなかった、とか言われるのを見た時には、正直、にんまりいたしました。読解に際してはその辺を意識していただけるとよろしいのではないかと思います。

2、大蟻食様の小説やエッセイでは、よく「食べる事」について言及がなされますし、ボクササイズをしたり、化粧品について語ったりされます。
ネットが発達し、人間のコミュニケーションが少しく変容し、人の精神のあり方に、昔のSFが楽天的に描いたようなある種の「進化」がされつつあると私としては感じています。(大蟻食様は、人間そんなに簡単に変わらないよとおっしゃるかもしれません)
また、少し前に視力を失った人に、電子的な装置で「視力」を取り戻させる事に成功したというニュースを見ましたが(ごく原始的な物に現段階では過ぎないようですが)人間の「サイボーグ化」というのも進んでいくのかなと思います。
そうした状況下で、逆に人間の「身体」と言う物が強く意識されてきているように感じます。
このような文脈で、大蟻食様に「身体」について一言お願いしたいです。
ちなみに私は海外通販で怪しげなサプリメントを買いあさり、ジムに足繁く通い、日に十回体脂肪率計に乗らないと気がおさまらないタイプです。

以前、どこかでたぶん読めると思いますが、小林恭二氏と人間の寿命が倍に伸びたら、という話をしたことがあります(専修大学だったかな)。小林氏はかなり劇的な変化を予測しておられましたが、私は、寿命が倍に伸びたら六十歳になった息子が職にも就かずに家でごろごろしていると百歳の母親が嘆くだけだと、至って面白くない返答をしたのですが、その考えは今でも変わっていません。三百年生きたり五百年生きたりすれば何か劇的に変るかもしれませんが、倍くらいでは大して変りはないでしょう。人間の身体的な条件についても同様でし。鉄道や自動車が当り前のものになっても、人間は、金と暇があると乗合馬車で湯治場に行っていた頃と大差がない行動を取っている訳ですから。webについても同様です。十七世紀のウクライナのラビが、ダマスカスのラビと文通で親しく意見交換していた、とか、デューラーの新作版画が地元で売り出された翌週にはヴェネツィアで海賊版が出回っており、それを知った画家は即座に現地の弁護士に連絡、販売差し止めを求めた、とか、十八世紀のやばい本の奥付を見ると何故かみんなオランダで印刷されたことになっている、と言う話とかを読むと尚更そう思う訳です。

2ちゃんねるなぞ見ていると、これは所謂カフェ文化だな、とも思います——皆さん忘れちゃってるようですが、別段カフェでは文化人(だけ)が高尚な話(だけ)をしていた訳ではなく、ごく普通の暇な人々が寄り集まっては(で、その中にたまたま、我々も名前を知っているあの人やこの人もいた訳ですが)無責任な放談を繰り返していた訳で、こっそりと持ち込まれる話題には信憑性の高いリークから全くのガセまで様々(その中に、時々、生産性の高い文化的な話もあったのは事実です)、文字通り2ちゃんねる的なネタで叩いたり煽ったりしているうちにネタ元炎上、という実例もあります。何しろ祭りは誰だって好きですし、暇な連中は元気に突撃をかましますし(新聞記者でもないのに話題の人の家の前に張り付いて、動きがあるとカフェに飛んで行って吹聴する)、全紙一枚までなら無検閲という法を逆手にとってそういうネタをパンフレットにしてばらまいたりもします(この話は来年か再来年には書こうと思っていますが)。違うのはワンクリックごとにどこかで誰かが儲けている、ということくらいでしょう(もしかするとこれが最大の変化を齎す要因かもしれません)。

現状くらいの変化では、人間性に根本的な変化は生じないのではないでしょうか。身体的な改変にしても、それによって世界観が根本から変わるくらいの改変(可聴域や可視の光線の範囲が完全にずれるとか)が一般化しない限り、平均的な身体のスペックに吸収されて終りだと思います。我々の認識は恐ろしいくらいに身体に拘束されており、それを完全に越えるには現在の変化程度ではまだまだ不足、ということだとお考え下さい。大抵のことより、たとえば一日当りの必要カロリーが半分になった場合の経済的・社会的インパクト(実際、必要なカロリーではなく食べる口が激減したために農作物の価格が下落して社会が激変した歴史的事例はあります)の方が大きいんじゃないですかね。

ちなみに、私も一頃マシンに嵌まっておりました。減量にはほとんど効きませんでしたが(半年で三キロが最大)、体脂肪率が減るのが面白くて(やり始めは一気に減った)。もっともあの面白さは、たとえば鱗が生えてきたり触手が生えてきたりするのとあまり変りがないような気もします。
 

3、コンピュータの計算能力の発達が、世のあらゆる事象を予測できる、という期待はカオス理論によって否定されたわけですが、ラプラスの魔自体が否定されたわけではないのではないかと私は考えています。(量子力学については理解できていないのであえて無視します)そうした中で人間が意識的に起こしたと信じる行動は、予めすべて決定された事なのかなぁと思うことがあります。
私の人生について多くを語るのは恥ずかしいのでよしますが、一言で言って塞翁が馬な人生を送っている人間として、今現在持っている幸福も不幸も、自分の自由意志によって得た物という実感が薄いです。
また、向精神薬が人間の心に与える影響を間近で見てきた人間なので、そういう体験もこうした人生観に強い影響を与えていると思います。
まあそれはおくとしても、脳内の活動も化学変化の集積に過ぎない以上、人間には自由意志というものは存在しないのでしょうか?
だとしたら私たちが幾ら否定しても無意識的にはしてしまう「祈り」にも意味はないのでしょうか。
戦争の法で、お内儀が伍長に「死ぬね」とただ言ったシーンが印象に残っています。

科学は人間の精神だの魂だのを解き明かすことができるか、という問いに対しては、問いそのものがナンセンスだと愚考します。脳の機能を解明することには相当なところまで成功するでしょうが、精神とか魂とかはあくまで概念であって、各々然々の性質を具えたものと規定されることで始めて存在し、土地により時代によりその定義を変え、伝達されることによって広まるものだからです。脳味噌をいじり回せば、概念がどう生み出されるのかは何かしら解明されるかもしれませんが、個別の概念には引っ掻き傷も付かないでしょう。こういう問題にはAI研究の方が成果を上げると思いますが、とは言え、私にとっては簡単なチューリング・テストさえ通れば取り敢えずは海豚の人だったり猫の人だったり機械の人だったり案山子の人だったりするので(いやまあもちろん、この機械の人はかなりあほだ、とかいうのはある訳ですが、あほか利口かで人を差別しちゃいけないよね)、あんまり関係がないといえば関係はありません。

一方、ここ十年くらい何となくそれらしいと思っているのは、大量発生大量死説(だったか?)とかいう進化論上の学説で、つまり、生物は特別な理由もなしに大量の突然変異を生み出し、そのうちの大半が特別な理由もなしに、ただ運が悪かったからというので絶滅しているという説です。適者生存もへったくれもない素敵な説でしょう? この説を応用するなら、人間がある局面である選択をして、別な選択をしないことには、全く、何の意味もないことになります。滅びる時にはどんな選択をしようと滅びる訳ですから。自由意思もまた概念であり、概念がすべてそうであるように、突き詰めれば認識の問題にすぎません。自由意思が本当に問題になるのは、選択自体に意味がなく、時としては選択さえできなかったということを喜ばしいこととして肯定できるかどうか、という問いに関してだけでしょう。「祈り」とか「信仰」とかいうものは、世界の容赦ない偶然性——「運が悪かったから」との間に何らかの関係を作ろうとする試みであり、最終的には、何の助けもなく絶滅に追いやられる瞬間にも、それを摂理として認めることに至るものです。尤も、そこまで行ったら聖人かツァディクだということになるのでしょうが。

ちなみに、「運が悪かったから」という言葉は、アメリカの研究者がロマ(所謂ジプシー)に、ナチの占領下におけるヨーロッパ・ロマ虐殺は何故行なわれたと考えるか、と訊ねて得た返答です。一千年間、何の精神的な支えもなく難民であり続けると人間はどうなってしまうか、という気の滅入る話なのですが(読んだ時にはひどいショックを受けました)、最近では実のところ、難民であることは人間にとっての本質であって、だから何が起ってもそれ以上の説明はできないししてはならない、という気がしています。こんなことが起ったのはこれが理由だ、だからこういう選択をしておけば避けられたのだ、という説明は心慰める嘘に過ぎず、他の選択はできなかったか、しても無駄だった——できた筈だと考えることがそもそも間違いだろう、と。その上で、できることをしていくことができるかどうか、全くの無駄になる努力を営々と積み重ねて行くことができるか、全てが徒労に終っても否定することなくいられるかどうか、が問われることになるのだと思います。

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