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2007.01.16

15. ついでにもひとつ

From: Date: 15 janvier 2007 20:54:15 HNJ To: monk@zag.att.ne.jp

「わたしを離さないで」は、大森望と豊崎由美のメッタ斬りコンビを始め、池上冬樹や茂木健一郎(web上に書評があります)、角田光代、小野正嗣が絶賛しております。紀伊国屋の書店員の多くが支持しキノベスの1位に輝いてもおります。彼らを否定するおつもりですか。文学の頂点メッタ斬りコンビから「読めていない」 と言われますね、これでは。

いやそれでひとつ聞きたいんですが、あなたはあれを読んだんですか。どう思いましたか。

それも言わずに、誰が褒めてたの彼が褒めてたのと挙げて行き、だから傑作の筈だと顔を赤らめもせずに言える人間が、「悪口言ってるっ! ひどいっ!」とか金切り声を上げて擁護に乗り出す本なぞ、私はこれっぽっちも尊重する必要は感じません。一冊の本に対する目利きの意見が必ず一致すると夢想する無邪気な方の支持する本ともなれば尚更です。こういう文句を引っ張り出しただけでも、ワーストに挙げる値打ちはあったことになります。即ち、一体どういう頭の構造をした読者が喜んで読むのかの例としてです。

『わたしを離さないで』が職業的な読み手の支持を集め、かつ私がワーストと名指すのは至極簡単、エモい代物をどう扱うか、の問題に過ぎません(紀伊国屋さんの方々も勿論同様です)。彼らはエモ文学のブームがまだ続くだろうと見るから褒めているのでしょうし(たぶんエモい代物に涙を流すこと自体にも何かしらの意義があると考えているのでしょう)、そういう評価自体が悪いと言う気は、私にはありません。エモいと言う点では強烈にエモい代物であり、それをプラスに評価するなら、これ以上の代物は確かに去年はなかったということになるでしょう。ただし、エモいことが即ち感動かといえば、全然違う、と私としては言わざるを得ない訳です。エモーショナルな刺激だけでは、感動としては全く不足です。エモーショナルな刺激を用いて造り上げられた形が与えるものが感動なので、そこのところを勘違いしている読み手が多すぎないか、という危惧からあえてワーストとして挙げた次第(まあ、イシグロはその辺を読み切ってああいう杜撰な仕事をした訳ですが——それにしても彼の文章は詰んないねえ、確かに)。エモい代物を求める方、なおかつ、世界が異様なくらいちまちまと狭苦しく、そのちまちました迷路の中を、作者によって鼠並みの知能しか与えられなかった登場人物が右往左往して可哀想な目に遭う話でも平気な方にはもちろん大いにお勧めできます。ただし、そういうのを読んでべーべー泣くことを、感動! とか言われると、実際に書く側としては強烈な脱力感に襲われる訳ですよ——何だお前ら結局ポルノが読みたいだけか?

From:
Date: 18 janvier 2007 17:15:20 HNJ
To: monk@zag.att.ne.jp

すみません、理解力がないので、質問させてください。
エンターテイメントは売れてなんぼではないのですか?だから売れない文学はくだらない、価値がないと言われてしまうのではないのですか?
カズオ・イシグロ、素晴らしいではないですか!大衆から支持され、評論家からも熱烈なプッシュ。もちろん売れたエンタメの中にもくだらないものはあるでしょうが、それをいうなら売れていないエンタメはもっとひどいわけで、わたしを離さないでより酷いものは山ほどあると思われます。
また、失礼ながら佐藤氏の作品は現在の他作家の人気作と比べると、とても売れているとはいえません。佐藤氏はご自身で「文学ではない」とおっしゃっておりました。つまり、売れないエンターテインメント、カズオ・イシグロより酷いのではないですか? いったい誰に向けて書かれておるのでしょうか。とても他の作家 にくだらないなどと言えない身分だと思います。
では。

おいおい、まさかこれ釣りじゃないだろうね?

釣りじゃないと仮定して、あなたは一体何が言いたいのかな。去年だか一昨年だかなら『世界の中心で愛を叫ぶ』にしとど泣き濡れてたようなど素人(いやあ、あなたの論法に従うなら、あれは立派な小説の筈ですよ——何しろ作者は純文学の新人賞をとった文学の作家で、しかも大衆に支持されたんだから)、と言われたくなければ、せめて『わたしを離さないで』のどこがどう素晴らしいのかをきちんと論じるべきじゃないのかね。それともあの小説を批判されて怒髪突天になるのは、読んでもいない小説をエンタメと決め付け、部数のデータもなしに売れてないと決め付け、売れてないエンタメは駄目と決め付け、駄目な小説を書く人間は売れてる小説=立派な小説(この理屈でいいのかどうか、よく考えてご覧)の批判をできる《身分》じゃない、と平気で主張できる人だけなのかな? 

小説は、エラい評論家がどう褒めたか貶したかに拘らず自分で読んで判断するもの、どんな《身分》の誰がどう褒めても貶してもいいものだという根本のところがあなたには理解できていないみたいだけど、それでいいのかどうか、ちょっと考えて、私が説得できるかどうか試してご覧よ。どこが良かったの? どこが素晴らしかったの? どこがどう傑作なの? 結局のところこういう種類の人間を大動員するだけのビョーキな小説、と私にせせら笑われたくなければ、次はきちんとハンドル決めて、真面目に書いていらっしゃい。真面目に書いてくれば、私も馬鹿にはしないから。

From: "thebluenowhere1978"
Date: 20 janvier 2007 08:22:05 HNJ
To:
Subject: 15の人は↓の人にそっくりですね。

>ranshi 『薔薇の名前は読んでないんだけど
>信頼する人はみんな小説としては駄目だっていう>のでそれを信用しました』

まあそうなんですけど、別人です。ちなみに最初の二通はアドレスだけ変えてあるけど発信元は同一でした。多少、慎重なようです。で、真面目に書いていらっしゃいと言ったら、またメールをくれました。

From: locklockkonnitiwa2000
Date: 22 janvier 2007 00:50:46 HNJ
To: monk@zag.att.ne.jp

もっとも中身は2ちゃんねるのイシグロ・スレッドのコピーペースト。コピペ元の方からほぼ同内容のきちんとしたメールをいただいているので、こっちの本文はカットします。

君ねえ、ちょっと真面目に人生について考えた方がいいと思うよ。


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2007.01.15

14. 『鋼の錬金術師』と『999』の関係が、今、明らかになる! およびファンサイト開設のお知らせ

From:
Date: 8 janvier 2007 20:32:37 HNJ
To: monk@zag.att.ne.jp
Subject: 「銀河鉄道 999 」と「鋼の錬金術師」の関連性


以前「鋼の錬金術師」と「銀河鉄道」の類似、元ネタについてメールしたものです。詳細をということですので、詳細と呼べるほどではないのですが、思いつくままに列挙してみます。
 
その前に一つ。わたしは「鋼の錬金術師」の漫画は全巻持っていて現在も新刊待ちうけ中。いっぽうアニメは前半部分(軍の葬儀のシーンまで)を、気が乗るときに見ていた程度です。
「銀河鉄道999」については、子供のときアニメを何度も見ていました。あと映画版も何度も見ました。でもDVDなどは持っていないので、最近見直してはいません。元ネタかな、と思われる点もですから、ざっくりとした、感覚的な既視観です。
 
1.鉄郎は機械の体を得るために旅している。エルリック兄弟は自分の肉体を取り戻すために旅している。目指すベクトルは正反対だが、これってある意味おなじことでは。
 
2.銀河鉄道の終着駅「惑星メーテル」とは、鉄郎が理想として追い求める機械の体をただでくれる国。その現状は、人間を、機械人間=惑星を構成する部品、ねじやら、歯車にする恐怖の忌むべき惑星。つまり惑星メーテルは、部品になった人間により構成されている国です。
 
鋼の錬金術師で、エルリック兄弟が探し求めている「賢者の石」は、人間によってできている。少なくとも現在ある不完全版「賢者の石」は、虐殺によって殺された人間によって構成されている恐怖の忌むべき石。
 
どっちも人間で出来ていて、物語内で絶対的にちかい力を持つ、という点。
 
3.メーテルは、実は魔女のようなおっかない女で、惑星の部品となりうる人間、人柱を勧誘しては、惑星メーテルに連れ帰っていた。(その真実はけれども、恐怖の惑星「惑星メーテル」を崩壊するための革命児「同志」を連れ帰っていた。いざというとき自らの体が崩壊することも辞さない強い意志を持つものを、メ ーテルが見定めていたわけですが。)
 
エルリック兄弟も、「人柱にするために生かされていることを忘れるな」とか言われてはよくぎりぎりのところで助かってますよね。これっておそらく完璧な賢者の石を作るための構成要素とされるためで。鉄郎が、メーテルに助けられながら旅を続けるのと同じでは…?
 
4.銀河鉄道の車掌さんと、鎧姿のアルと、見た目が似ている。車掌さんは透明人間で、アルは魂を練成した「空洞」なわけですが。見た目的には、外側の大きさにひきかえ中身の正体が見当たらず、目だけ光っているところ、アルの見た目は車掌さんをもろ彷彿とさせませんか。
 
ほかにも、もしや…と思う点。(これはほとんどこじつけ)
・銀河鉄道の機械人間は牛乳を飲むと体が錆びて終わりです。
鋼のエドは牛乳が嫌いです。
 
・ 銀河鉄道では、未来の鉄郎や未来の少し古ぼけた銀河鉄道999と、今の鉄郎と今の銀河鉄道999がすれ違う、接点の駅のエピソードがあった気がします(うるおぼえ)。鋼の錬金術師では、真理の扉の向こう側にもう一つ世界があって、アルに会える。この二つの次元の接点という観念など。……これはそれこそSFによくある設定ですので限定できないと思いますが。
 
どう思いますか?
 
影響と元ネタと類似いう言葉にどれほどの差異があるのか、そのへんのところはあまり意識せずに書いてみました。

返信、どうもありがとうございました。『鋼』の方はこちらも最新刊追っ掛け中、敵味方の慣れ合い案配が素敵なことになって参りました。アニメの方は十巻までの内容でよくあそこまで盛り上げたなという感じ。正直、見終わった後は、これで先が続けられるかと案じたのですが、見事に舵を切り替えて繋いでくれました。荒川弘って結構偉い。でもって1についてですが、怪しい中国人の登場により、機械と肉体の問題が相互補完的なものとして浮かび上がって来ております。ここからどう料理してくれるとしても、あと十巻は掛りそう。

でもって『銀河鉄道』の方に関しては、お見逸れしました、と言うしかありません。こちらは見た筈なのに詳細はまるで覚えておりませんでした。ある種の影響関係は確かに指摘できるかもしれません。御教授どうもありがとうございました。
 

From:
Date: 13 janvier 2007 15:37:37 HNJ
To: monk@zag.att.ne.jp
Subject: 大蟻食様ファンサイトを作らせて頂きました。

初めまして。
このたび、大蟻食様のファンサイトを作らせて頂きました。
まだリンク集とスレッドフロート式掲示板だけですが、日常生活に支障がでない程度にこれからも更新を続けて行きたいと思っております。
掲示板の方は、ファンの交流の場となってくれれば嬉しいなと思っております。
 
文句ではなく宣伝になってしまいまして、失礼いたしました。
 
大蟻喰さまには、これからますますのご活躍をお祈りしております。
 
佐藤亜紀/大蟻喰様ストーキングメモ
http://ooarikuifc.web.fc2.com/
 
puripurizaemon
 
p.s 先日更新されたwikipediaの情報量はすごいですね。
単行本未収録の作品があれだけあるとは知りませんでした。

リンク先、拝見いたしました。今後ともよろしく。
ご質問等ありましたらお気軽にメール下さい。

ところでwikiにリストアップされた短編に関してですが、1998年の『黄色いペンキの神』以前のものはあまりにもひどいので、できれば読まないで下さい。『フリードリヒ・S』以降のものは短編集に纏める機会が近々あると思います。

あと、例の鰯の頭を崇める人からまたも病気メールが来ていたので放り込んであります。何か一昨日のベストに鰯の頭を挙げなかったのが気に障った様子。でもね、鰯の頭は、信者じゃない人には鰯の頭に過ぎないんだよ。悪いけどワーストにも挙げてあげらんない。ごめんね。

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2007.01.04

13. 再びあの件。ただしあの件にあらず。

From:
Date: 2 janvier 2007 03:07:29 HNJ
To: monk@zag.att.ne.jp
Subject: 再びあの件なのですが

拝啓 大蟻食様
すでに話題になった事柄ですがもう1度取り上げることをお許しください。ご自身の作品の外国語への翻訳、または外国語での作品発表の件です。
 前回質問のあったときは、実際的なレベルからさらりとかわして答えているような印象を受けたのですが、当方としては勝手に、もっとその気になれば良いのにと思ったり、実はけっこう悩んでるんじゃないかなと邪推したりしているわけです。
 つまり事は、大蟻食氏の何と言うか、我が国読書界におけるポジションの問題に関わっているように思います。とくに「バルタザールの遍歴」をはじめとするあなたの「西洋史物」は、その作品世界の緻密さの点で他の日本人作家が書いた過去のヨーロッパを舞台にした小説とはレベルが違います(ここでこれ以上、誰彼をあげつらうのはやめときましょう)。でもそのポジションは、ちょうど知る人ぞ知る通好みのフランス料理店みたいなもので、評価は高くともそう大勢の多くの客はやって来ないだろう。勿論、大向こうを狙わなきゃだめみたいなことを言うつもりはないのです。でも今度は「メッテルニヒ」伝でしょ。一次史料を読んで注がいっぱいつくライフワークでしょ。これを期に広く読者を開拓したいって欲を出したとしてもごく健全じゃないでしょうか。
 ご自身、語学力はかなりの水準でしょうから、余計慎重になるのかもしれないですね。でも、あなたの作中人物の貴族の表現を借りれば「バイオリンを諦めて」でも取り組む価値があるような気がするのですが。
 「バルタザールの遍歴」を読んでいる最中、私は何度か本をひっくり返して、著者がごく普通の名前の日本人だと言うことを確認して驚きました。ヨーロッパの読者があなたの本をひっくり返して、「この人、どこの人なんだ」って言わせたら愉快じゃないですか。

甚太郎

悩んだのは事実ですが、現在では悟りの境地にあります。十年くらい前、フランスの編集者からは「最低限芥川賞、ないしは大ベストセラーが翻訳の最低条件」と言われ、それにしちゃ高村薫とか訳がないじゃないの(当時。今は知らん)と訊いたら「アメリカの猿真似小説はいらない」と答えられた時には結構うんざりしたものです。村上春樹が一部に熱狂的な読者を持ちながらも日本文学編集者と翻訳家から毛嫌いされていた頃でして、これもまた理由は「アメリカの猿真似小説」だったと記憶しております。何と言おうか、現代社会に生きているフツーの日本人がフツーに抱えている諸問題の表明というのは、フランス人の目から見ると「アメリカの猿真似」であるらしい。いや、あの、じゃあ我々はどんな生活を送ればいいんですかね? 株もインターネット通販もやらず、木と紙で出来た家に住んで、卵の殻のように薄い茶碗から二本の棒を使ってコメを摘んで食えばご満足? ちなみに、そこの会社はフツーに現代の生活を描くフツーの作家の本の表紙に水墨画(いや詳しくはないけど中国のじゃないか、これ)の表紙を付けており、その編集者は私にそれをくれる時「わざとじゃないの、変でしょ、変なのは私も判ってるのよ、でも日本の小説はこうしないと売れないの」と一生懸命念を押しておりました。どうも自分がバカみたいに見えると言う自覚はあったみたい。やれやれ。

その後、辻某の「白仏」がフェミナ賞を取り、アメリ・ノートンの「震えおののいて」がアカデミーの賞を取ったところで、フランスで訳を出すことは全面的に諦めました。何と言おうか、彼らは、バカみたいに見えることは百も承知でも、その手のエキゾチックなイメージを諦められないらしいのですよ。謎と神秘と恐怖に満ちた「微笑みの国」。綺麗な細工物を作る愉快な小人の住む地下の国。まあ、昨今のハルキブームとサブカルブームで事情は幾らか変わりつつあることを希望しますが、あんまり私には関係ないでしょう。たぶんむこうでライトノベルのレーベルが出来て大ヒットを飛ばす日の方が近いよ。

あと、日本文学を積極的に出すマイナーレーベルというのもある訳ですが、こういうところのピックアップ力にもあまり期待はできません。お世辞にも日本語力が高いとは言えないので(ある翻訳者は正直に「粗筋しかわからん」「百ページを越えると読み切れない」と言っておりました。そりゃまあ、粗筋しかわからない状態で二百ページ超はきつかろう)、怒濤のごとき日本の出版物を乱読しては何か見付けて、これいけます、とプッシュしてくれる可能性はあまりにも低い。日本からの提案でそのまま出している、という可能性が大でしょう。つまりは、日本の文壇の力関係の横滑りにオリエンタリズムのフィルターを掛けて出している、というのが現実です。佐藤亜紀が引っ掛かるような状況じゃないね。

以上、フランスにおける状況でございました。その他の国とは交渉もしておりませんが、まあ、大差はないんじゃないかな。

という訳でまず攻略すべきは日本国内である訳ですが、これも残念ながら、私にどうにかできる問題ではありません。本がヒットするか否かは、特に最近では、出版社の販売戦略次第、売りのある作家の作品を大々的にプロモートすれば大ヒットが出来上がるという図式が定着しつつあるのは皆様も御存知の通り(猛烈にシニカルなことを言うなら、昨今では中が全部白紙でも大ベストセラーにすることは可能でしょう。中身なんか書く必要はありません)。作品自体以外に一切売りのない佐藤の仕事がそういう形でプロモートされる可能性は万が一にもありません。売れなくなるからと言う理由で註も索引も省かれる現状で、『メッテルニヒ氏の仕事』がそういう販売戦略に乗って売り出される可能性もまた皆無ですからご安心を。ちなみに完成は2008年上半期、出版は、そうねえ、ウィーン会議二百周年の2014年までには何とかしたいね。

まあ、前回書いたような底意地の悪い悪戯(以上のような状況をお読みになった後では、あれがいかに意地悪かはお判りいただけたでしょう——いやあ、ばれた後でケツ捲ってやったら愉快だろうな)も含め、万事粛々と進めるのが現在の方針でございます。

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