« octobre 2006 | Accueil | janvier 2007 »

2006.12.30

12. 嫌がらせの技法

From: 田中 上一浪
Date: 29 décembre 2006 22:19:11 HNJ
To: monk@zag.att.ne.jp
Subject: 批判する時は相手の名前を出すもの?

名前を出さずに批判するというやり方を米本は是認していたようだが、こういうのも卑怯である
小谷野敦

名前を出さない事にこだわっているのも理解できない。相手を「エラい書き手」と表現し、「コネ」がうんぬんといっているところをみると、自分は弱者だから弾圧を避けるために匿名の皮肉をとばすしかないとでもいいたいのだろうか。
巽昌章

佐藤亜紀、笙野頼子、殊能将之らはよく相手の名前を出さずに批判することがありますが、自分で卑怯だとは思いませんか。

えー、申し訳ありません。どこからどこまでが何の引用なのかいまひとつはっきりしないのですが、「名前を」から「卑怯である」まではjun-jun1965ことあっちゃんまたは猫猫先生(はてなダイアリーのキーワードによるのだが、おおこれは吃驚、大学の先生だったのか、別冊宝島あたりで仕事をしているライターの人だと思ってたよ)、「自分は」から「のだろうか」までは巽昌章というミステリ評論家の人の、それぞれ引用ということでよろしいですね。違ったらご連絡下さい。また引用の出典を教えて下さると有り難い。二行や三行じゃ何をどう言っているのか推測するしかないですからね。

殊能先生がどこでどういう批判を名前を挙げずに行ったのかは知りませんが、笙野氏の論争は読んでおりますし、自分の場合はもっと具体的に申し上げることができます。名前を挙げないのは、第一には、それが誰なのかはどうでもよく、実のところ誰であっても同じだと考えているからであり、もっと言うなら

症例としてのみ興味の対象となっている

からです。症例について論じるのに、特別な違いもないのに誰の癌だの彼の癌だの言っても仕方ないでしょ? おまけに特定の名前を挙げると、そのものずばりの患者の癖にああそりゃおれの癌じゃないと安心する奴が出てくるからね。少なくとも私がある症例を論う時には、その人間固有のあり方ではなく、社会のある部分、ある階層、ある種族に共通の病理として論じているので、できることならより広く、ひょっとしてこれおれのことかと怒っていただきたい訳です。病気ってのは、驚くほど無個性だからね。そこから更に派生して、あんたの個人名なんか挙げる必要はないよだってゴマンといる症例のひとつじゃん、とせせら笑うやり方もありますが。

これじゃ喧嘩を売り難くて困る、とおっしゃるなら対処法を教えて差し上げましょう。まず第一には、症例には症例、です。つまり「****とか言っている阿呆が時々いるが」とやって反論する訳で、たぶん、これが一番建設的な方法論です。ブログならトラバを打っておけば相手には通じますし、活字なら付箋を付けて送り付ければよろしい。それじゃ嫌だ、どうしても向かい合ってタイマン張りたいと言うなら「****ってのはおれに対する批判か」と名乗りを挙げて出て行けばいい訳です。

更に、軽蔑表明の技法の一つとしても、名前も挙げない、というやり方は非常に古典的であることもお忘れなく。分かる人々の間でくすくす笑いを広げて嫌な思いをさせようという訳です。非個人的な症例として扱われることも、「エラい先生」とやられてくすくす笑われることも、やられた人間には非常に頭に来るものでしょうし、頭に来させるためにやっている訳ですよ。揚句に、卑怯っ、とかきいきい声を挙げるんじゃ、思うつぼだよねえ。無視するか(まあつまり端的に言って、批判はされていない訳ですよ——名前が挙がっていないなら、おれのこととは全然思わなかった、で鉄面皮を通せばよろしい)、他人事みたいな顔をして、氏の診断は誤っている、とやるか、それはおれのことか馬鹿野郎と出て行くか。いずれにせよお好きなやり方をお選び下さい。

| | TrackBack (0)

2006.12.23

11. 平野氏に謝る?

From:
Date: 22 décembre 2006 17:43:25 HNJ
To: monk@zag.att.ne.jp
Subject: 真実はどうなのですか。


ずばり、平野啓一郎のファンです。

彼の憤りをどのようにお感じですか。

私は作家ではありませんが、少なくとも謝るべきと思いますよ。

今年の締めくくりにふさわしい文句、ありがとうございます。まずはかい摘んだ返答をさせていただきましょう。

1. 彼の憤りをどのようにお感じですか。

何も感じません。本気で憤っているとも思いません。誰かに一言弁明しておいた方がいいと言われたからやった、というだけでしょう。内容的にも、「読んだことがない」まで含めて、六年前に新潮社が寄越した内容証明郵便にあったそのままですから、今更何の感慨もありません。

2. 謝るべきだと思いますよ。

迷惑掛けてすいません、と一言謝ってしかるべきは平野氏の方です。悪気はなかったんです、とか、ぼくの本意じゃなかったんです、とか、運命の罪です(はい、笑って!)、とか付け加えていただいても結構ですよ。

で、さて、この後を読んでご理解いただけるかどうかは非常に心許ないのですが、取り敢えずひとつ質問をさせて下さい——『生活と意見』第十三回は読んでいただけましたか。平野氏の弁明には私の主張に対するリンクが貼ってなかったようで、その為、平野氏の見解のみを読んで鵜呑みにする方が続出しております。平野氏の主張では、私が彼の『日蝕』を盗作呼ばわりしたように言われていますが、私は『ぱくり』と言っただけです。辞書的に厳格な用法や特殊西日本的語法ではどうか知りませんが、googleで検索して文例を探していただければお判りの通り、現在一般に用いられる『ぱくり』は特に罪に問うほどのものではない、盗みとしても全く罪のない、何事もなければなあなあで済む程度のものに過ぎないことがほとんどです(もちろん執念深く怒る奴は怒りますが、新潮社が妙なことを始めなければ、私もなあなあで済ませるつもりでした)。盗みと言いたければ、私はちゃんと盗みと言ったでしょうし、絶対に許せないということなら裁判所にだって持ち込んだでしょう。例の弁明にしても、私がもう少し小煩ければ、盗作者呼ばわりして濡れ衣を着せたという濡れ衣を着せたというので謝罪を求めているところです。きちんとお読みいただければお判りの通り、私が批判の対象にしているのは新潮社の不透明で不誠実な対応であって(これについては平野氏も同意してくれています)、平野氏については、残念ながら言及せざるを得ない、と明言した筈です。

しかしたぶんあなたにしても、ここを読みながらわくわくしておられる皆様にしても、訊きたいのはそんなことではないでしょう。平野氏が、読んだこともないし、今後とも読むつもりはないから盗作ではあり得ないと主張したことを私がどう考えたか、ではありませんか。

今後とも読まないかどうかは兎も角として、「読んでいない」には二通りの可能性があります。

1. 本当に読んでいない。
2. 実は読んだ。

「読んでいない」という主張だけでは、どちらとも確認することは困難です。平野氏に好意的な人間は1だと取るでしょうし、悪意があるとまでは行かなくても好意的ではない人間は2かもしれないと考えるでしょう。私は彼に対して特に好意も悪意も持っていませんから、両方の可能性を保留しておくとしましょう。その上で、次のような可能性を更に考える訳です。

A. 新潮社は何もしていない。
B. 新潮社は何らかの手を打った。

これもまた、誰が何と主張しようと確認のできない問題です。つまり、新潮社が実際にこの件をどう考えどう処理したかは誰にも分からない。つまり1が真だったとしても、新潮社は何かやったかもしれないし、何もしなかったかもしれない。組み合わせれば次のようになります。

1-A  平野氏は読んでおらず、当然ぱくってもおらず、新潮社はその主張を信じたので何の手も打つ必要は感じなかった。
1-B 平野氏は読んでいないのだが、新潮社はその主張を信じず、結果として『生活と意見』第十三回にあるような事態が起った。
2-A 平野氏は実は読んでぱくったが、新潮社は平野氏の弁明を信じ、何の手も打つ必要は感じなかった。
2-B 平野氏は実は読んでぱくり、新潮社はそれに気付いて『生活と意見』第十三回にあるような手段で糊塗しようとした。

1-Aを信じるためには、平野氏および新潮社の全き善意を信用する必要があります。ただし、どちらも確認は不可能です。1-Bも大いにありそうなことではありますが、そう信じる為には、平野氏の善意を信じる必要があります。2-Aも十分に起り得ることですが、そう信じるためには新潮社の善意を無条件に信じなければなりません。2-Bは最悪のケースですが、残念ながらこういうことが起らなかったと信じるだけの証拠を、新潮社も平野氏も提示していません。

もっと簡単に纏めましょうか? 平野氏が白であるか黒であるかは、平野氏の弁明後も定かではなく、そもそも、何が起ったか、には全く関係がないのです。平野氏が完全な白でも、新潮社の誰かが2の可能性を懸念するだけで、Bは簡単に引き起されてしまう。題材の重複を懸念するだけで、同様の事態は起ってしまう。更に1にはもう一つの不幸な可能性があります——誰かが心配になるような類似が、全く偶然に、あったかもしれない。とすれば、平野氏が全く知らないところで何かが行なわれなかったとは断言できない訳です。実際、平野氏デビュー時の一連の騒動を考えていただければ、どこかで誰かが神経過敏になっていたと考えるのは、それほど不自然とは思いません。

平野氏が批判すべきは新潮社の過激なプロモーション戦略であって、巻き添えを食った「売れない作家」ではありません。ああいう売り込みを掛けようなどと誰も考えなければ、平野氏が実際にぱくっていてもいなくても、『鏡の影』と『日蝕』は普通に共存できた筈ですから(実際、そうなるものだと私は思っていたのですが)。迷惑掛けてすいませんと一言詫びて欲しいくらい、というのはそういう意味です——実際にぱくったのだとしても、全く偶然であったのだとしてもね。

たぶんこれだけではご満足いただけないでしょうね。ギャラリーというのはひどく貪欲なものですから。それはもう皆様、証明がないのは言い掛かりだからだろう、とか何とか言って煽るあおる。確かに、私の手元には皆様垂涎の証明とやらが、『生活と意見』第十三回をupした段階から置いてあります。ただし、それを公表するのは、言い掛かりだと言い掛かりを付けられて非難轟々になり、作家生命が危うくなってからにしようと決めています。だって、さ。

まじに証明されちゃったら平野氏が困るでしょ?

私は別に最初から、ああいうやる気満々(だった、と言うべきですかね)の作家を葬り去りたかった訳じゃないんですよ。どうもこれは抗議の声を上げなければこのまま抹殺だなと思って公にしただけで。むしろ彼には、私が大迷惑を被った見返りとなるべき、立派な作品を書いてもらわなければ、こっちは死んでも死に切れない。作家一人踏み付けにしてデビューを飾ったなら、それだけの価値を証明してもらわないとね。また現在平野氏が演じている、今の文学とは何なのかを知らず、理解しようという気もない大衆の前で半世紀前の文豪のポーズを演じて彼らを繋ぎ止めておく仕事というのもなかなかに悲劇的で崇高なものだとは思います(ああいう時代錯誤な《文化人》がどうしても必要なのだとは、文学に限らず、あちこちで聞かれるところでもありますし)。もちろん、彼には作家として長生きして貰わなければなりません。ところで大衆とは、即ち、大衆です。私がどんなにぱくり自体はOKと言っても、うるさがたがオリジナリティそれは虚妄と口を揃えても、具体的な類似が指摘されたが最後、ショーは終り(或いは私の方が今度こそ抹殺されて終りかな?)。その段階でどんな実質を具えていたとしても誰も気に掛けない。私は平野氏にとどめを刺す気はありません。もちろん、私以外の誰か評論家が指摘するかも、などというご心配も全く無用です。批評の機能不全がこのショーを可能にしている訳ですし(ということを悟るのに六年掛りました、ほんと)、作品を「感じ」ではなくきちんと分析して、似てる、似てない、と言うだけのスキルのある評論家は実際皆無です。いたとしても、仕事くれるかもしれないところを怒らせる度胸は誰にもないみたいだしね。かくてショーは続く訳です。誰にとっても結構なことでしょう? 

ともあれ、ブログ版の文句の最初にも書いた通り、私にとっては全て過去のことです。こっちはこっちで何とか生き残ってやっておりますし、平野氏も鱗一枚剥がれた様子もないのは何よりでした。あんたらで勝手に判断したら、という姿勢は今のところ変える気はありません。もちろん下手糞な判断は喜んで嘲笑させていただきます。

それでは。

| | TrackBack (0)

10. 溜りに溜った文句を一挙放出

溜ってしまって申し訳ありません。文句の時間です。
なお、何だか気の毒なことになってしまった人が出たため、メアド公開はしばらく中止といたします。ブログをお持ちの方は文中でブログのアドレスを御公開下さい。病室にはまだかなりの空きがありますので、そりゃ匿名じゃなきゃ出せないわな、というようなメールはどんどん放り込ませていただきます。その旨、よろしく。

From: 長谷部 充
Date: 22 octobre 2006 23:58:22 HNJ
To: monk@zag.att.ne.jp
Subject: 初めまして、長谷部 充と申します。

佐藤 亜紀さんの『日本人よ共和主義者たらんと欲すればあと
一息だ!』に感銘を受けました。(そんな事を言っても殆どの
人が同じ事を述べているかと思います)
本当に、相手の事を返り観ず、自分の勝手でメールを出してい
る事について、些か恥ずかしくも思っているんですが。でも、
ある事に対して凄く気になってしまいメールをしました。

亜紀さんが仰ってる『文句のある奴は前に出ろ!』
と言うところでです。

自分の場合は、自分の『自由』を行使し、亜紀さんを褒めちぎ
ります!

でも、亜紀さんの仰っている『文句のある奴は前に出ろ!』は
、その事に対し触発され文句を書き込む輩は、実は自分の自由
を無くし他の者に触発され、自分の自由を行使出来ていない、
見失っている事に対して皮肉っているのかと思えました。(そ
の点が、もしかしたら隠された皮肉だと思っています)

本当に言葉足らずで申し訳ないです、ただ、亜紀さんの様な
天然記念物を、もっと保護する体制が国には必要だと思いメー
ルをしたし次第であります!

ちなみに
(佐藤註:アドレス等データカット)
かかって来い!!

--------------------------------------
Start Yahoo! Auction now! Check out the cool campaign
http://pr.mail.yahoo.co.jp/auction/

文句投稿ありがとうございます。返答、遅くなってしまいましたが、文句、ありましたらご遠慮なくお寄せ下さい。今後ともよろしく。


From: "原 京子"
Date: 1 mai 2006 18:24:58 HNJ
To:
Subject: お礼とお詫び

私の長い、そして失礼でもあった問いにお答え下さり、ありがとうございました。
 
いじめに関する問題について、そのつもりはなかったのですが、大蟻食さんやいじめの被害者を侮辱するような発言になってしまっていたことをお詫びします。
 
ただ、私は立ち直って許したのだから他の人も許せるはず、というような意図はありませんでした。ですが、そう受け取られて仕方がない文章だったと思います。
 
私がああいう発言をしてしまった理由の一つは、「許さない」という言葉に過剰に反応してしまったためかもしれません。私が個人的に、許せない自分が嫌だとか、長いこと中学時代に呪縛されていたような気がする、というようなことから、「許せない」とか「許されない」という言葉が何か駄目になっていたらしいです。
 
そして私は、被害者の魂がいじめによってひどいダメージをうけ、危機にさらされたとしても完全に死んでしまうわけではなく、何とか回復しようとするならば、加害者の魂も完全に死んでいるわけではなく、罪は罪としても、加害者も許されたがっているか、そのうち許されたがるはずだという前提に立っていて、それが楽園にいる、ということだということと、他の人は必ずしもそうではない、ということを了解しました。
 
自分がいかにいじめについて理解していなかったか、そして理解しているつもりになっていたかを考え、羞恥を覚えますが、一方で、理解したくないから理解しなかったのかもしれない、とも思います。
 
いじめの被害が世間の理解を得にくいのは、私も含めて、深刻な被害にあったことのない人間は、わかろうと思っても実際にはわからないということとは別に、本当はわかりたがっていない、ということもあるのかという気がしました。
 
また、私が不用意な発言をしたもう一つの理由は、無神経な話ですが単純に誰かの経験や考えを聞いてみたかったということなのですが、このように踏み込むべき問題ではありませんでした。
 
おそらく自分の友達がかつていじめの被害者であって、そのことについて多くは語りたがらないけれども引きずっているのはわかる、というような状況であれば、そのことについて決して自分から尋ねたりはしないでしょうが、メール、ということで甘えがあったと思います。
 
不愉快な思いをさせたかと思います。申し訳ありませんでした。
 
にも関わらず、誠実にご回答いただき、ありがとうございました。
 
これはお礼とお詫びですので、ご回答は不要です。
 
お仕事頑張ってください。
 
                                はら


こちらこそ、つい辛辣になってしまい申し訳ありませんでした。いじめには人間を破壊するくらいの危険性があるということをご理解いただきたかったので、ああいう書き方になったことをお許し下さい。原さんの経験自体は非常に貴重なものですし、それを伺えたこと自体は幸いでした。このメールは公開させていただきますが、不都合でしたらいつでもご連絡下さい。
 
From:
Date: 25 octobre 2006 15:38:55 HNJ
To: monk@zag.att.ne.jp
Subject: モーリス・ルブラン著 バルタザールの風変わりな毎日  La Vie Extravagante de Balthazar ( 1925 )

 
「バルタザールの遍歴」「天使」のファンです。
他は未読というだけです。
これら作品のみのファンというわけではございません。
先日、モーリス・ルブランの作品リストに
「バルタザールの風変わりな毎日:
La Vie extravagante de Balthazar(1925)」というのを発見し、
もしやこれが「バルタザールの遍歴」の元ネタなのでは!?
と、ときめき加減で、さっそくお尋ねしている次第です。
もしも元ネタなら、オークションやマーケットプレイスで
ゲットしようと思っているのです。
(どこも絶版みたいで簡単に手に入らない…。)
好きな作品のネタ元というのはとっても気になるものなのです。
ちなみに私は、
「鋼の錬金術師」は「銀河鉄道999」が元ネタに有るのではと
$B!J%Y%/%H%k$,5U$@$1$I!K$H!"
友人と語らったりしてます。
これって的外れでしょうか……どう思われますか?
 
(しょうもない質問でしたら削ってください。)


申し訳ない、返答遅れでチャンスを棒に振ってしまったのでなければいいのですが。ルブランのその本自体は読んだことがありませんでした。図書館で探してみます。また(すいません、一部文字化けしてしまいました)「鋼の錬金術師」と「銀河鉄道」の類似ですが、「銀河鉄道」に体の一部を機械化した人間って、出て来たような漠然とした記憶があります。ただし、この種のサイボーグ化について言うならSFにはよくあるものなので、元ネタとまで言えるかどうか(何しろアニメのエンディングだかオープニングだかに『ウェスタン』の冒頭そっくりの駅が一瞬映るくらいのものですし)。よろしければ詳細教えて下さい。

From: sait
Date: 3 novembre 2006 20:20:13 HNJ
To: monk@zag.att.ne.jp
Subject: 佐藤亜紀先生へ:ファンメールです

佐藤亜紀先生

突然すみません。ただのファンです。

このところ、年のせいか小説を読むのがかったるくなってしまって、
でも唯一かったるくならないのが自分的に保障されている先生の小説を
バルタザールの遍歴からずっと読み返しているのですが、
初期の作品などは、発刊から十数年経ち、自分もその分年をとったのに、いよいよすごくて、
先生の小説と、先生の存在の有り難さに、改めて頭をガツンと殴られたような気分でいます。
初めてバルタザールに出会った時に、
日本にこんな人が出てくるなんてなあ、信じらんないなあ、
と思いましたが、その驚きを、今また再確認しているところです。

先生のように、つっぱりロックンロールだと、
何かとご苦労もおありかと思いますが、
そのままつっぱって走り続けてください。
先生の存在は、掛け値なし、何にも代え難い宝石だと私は思います。

数年前、三田の慶応の講演後のパーティで、
ほんの少しだけお話しさせていただきました。
うれしい思い出です。

新作を楽しみにしております。
時節柄、お体くれぐれもお大事に。

齊藤裕子


saito様、ご無沙汰しております。こちらもどうにか元気でやっております(というか、虚脱が長くて更新が遅れてしまいましたが)。いずれまた何かの折りにご一緒できればいいですね。今後ともよろしく。

From: "macoto.h"
Date: 19 novembre 2006 17:37:49 HNJ
To:
Subject: 翻訳と海外での出版について

日本に生まれなかったばかりに日本語を習得しておらず、
故に未だ大蟻食様の作品を読めていない小説好きの外人
を想定し、彼女(彼)に代わって文句を言わせていただきます。
 
作品を翻訳して海外で出版するというような話はないのでしょうか。
 
これまでの作品が外国語に翻訳されることになった場合、
翻訳者についての希望などはありますか。
たとえば、専門の翻訳家と作家ではどちらが好ましいかとか。
 
あるいは外国語で新作を書かれるおつもりはありますか。
(やられたら泣きながら文句言いにきます)
 
小説好きならば佐藤亜紀を原語で読むために日本語を習得すべし
と彼(彼女)には言ってやってもよいわけですが。

Gauche


二、三、話はあったのですが、今のところは頓挫しております。どうせなら自腹を切って訳させた上、欧州圏の僻地の作家の作品ということにして、代理人を立てて持ち込んでやろうかとも考えています。あとでばらしたら面白いぞ。もっとも、イェルジ・コジンスキーみたいな目には遭いたくないけど。

それから翻訳についてですが、翻訳家の翻訳も作家の翻訳も帯に短したすきに長しの感があります。語学のできる人間と文章の書ける人間が組んでやるのが望ましいのでしょうが、翻訳書の印税って、折半すると情けないことになりますからね。外国語での執筆については、残念ながら、考えていません。なもので、目下は日本語で読んでいただくしかない訳です。

という訳でした。それではまた。

| | TrackBack (0)

« octobre 2006 | Accueil | janvier 2007 »