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2006.12.23

11. 平野氏に謝る?

From:
Date: 22 décembre 2006 17:43:25 HNJ
To: monk@zag.att.ne.jp
Subject: 真実はどうなのですか。


ずばり、平野啓一郎のファンです。

彼の憤りをどのようにお感じですか。

私は作家ではありませんが、少なくとも謝るべきと思いますよ。

今年の締めくくりにふさわしい文句、ありがとうございます。まずはかい摘んだ返答をさせていただきましょう。

1. 彼の憤りをどのようにお感じですか。

何も感じません。本気で憤っているとも思いません。誰かに一言弁明しておいた方がいいと言われたからやった、というだけでしょう。内容的にも、「読んだことがない」まで含めて、六年前に新潮社が寄越した内容証明郵便にあったそのままですから、今更何の感慨もありません。

2. 謝るべきだと思いますよ。

迷惑掛けてすいません、と一言謝ってしかるべきは平野氏の方です。悪気はなかったんです、とか、ぼくの本意じゃなかったんです、とか、運命の罪です(はい、笑って!)、とか付け加えていただいても結構ですよ。

で、さて、この後を読んでご理解いただけるかどうかは非常に心許ないのですが、取り敢えずひとつ質問をさせて下さい——『生活と意見』第十三回は読んでいただけましたか。平野氏の弁明には私の主張に対するリンクが貼ってなかったようで、その為、平野氏の見解のみを読んで鵜呑みにする方が続出しております。平野氏の主張では、私が彼の『日蝕』を盗作呼ばわりしたように言われていますが、私は『ぱくり』と言っただけです。辞書的に厳格な用法や特殊西日本的語法ではどうか知りませんが、googleで検索して文例を探していただければお判りの通り、現在一般に用いられる『ぱくり』は特に罪に問うほどのものではない、盗みとしても全く罪のない、何事もなければなあなあで済む程度のものに過ぎないことがほとんどです(もちろん執念深く怒る奴は怒りますが、新潮社が妙なことを始めなければ、私もなあなあで済ませるつもりでした)。盗みと言いたければ、私はちゃんと盗みと言ったでしょうし、絶対に許せないということなら裁判所にだって持ち込んだでしょう。例の弁明にしても、私がもう少し小煩ければ、盗作者呼ばわりして濡れ衣を着せたという濡れ衣を着せたというので謝罪を求めているところです。きちんとお読みいただければお判りの通り、私が批判の対象にしているのは新潮社の不透明で不誠実な対応であって(これについては平野氏も同意してくれています)、平野氏については、残念ながら言及せざるを得ない、と明言した筈です。

しかしたぶんあなたにしても、ここを読みながらわくわくしておられる皆様にしても、訊きたいのはそんなことではないでしょう。平野氏が、読んだこともないし、今後とも読むつもりはないから盗作ではあり得ないと主張したことを私がどう考えたか、ではありませんか。

今後とも読まないかどうかは兎も角として、「読んでいない」には二通りの可能性があります。

1. 本当に読んでいない。
2. 実は読んだ。

「読んでいない」という主張だけでは、どちらとも確認することは困難です。平野氏に好意的な人間は1だと取るでしょうし、悪意があるとまでは行かなくても好意的ではない人間は2かもしれないと考えるでしょう。私は彼に対して特に好意も悪意も持っていませんから、両方の可能性を保留しておくとしましょう。その上で、次のような可能性を更に考える訳です。

A. 新潮社は何もしていない。
B. 新潮社は何らかの手を打った。

これもまた、誰が何と主張しようと確認のできない問題です。つまり、新潮社が実際にこの件をどう考えどう処理したかは誰にも分からない。つまり1が真だったとしても、新潮社は何かやったかもしれないし、何もしなかったかもしれない。組み合わせれば次のようになります。

1-A  平野氏は読んでおらず、当然ぱくってもおらず、新潮社はその主張を信じたので何の手も打つ必要は感じなかった。
1-B 平野氏は読んでいないのだが、新潮社はその主張を信じず、結果として『生活と意見』第十三回にあるような事態が起った。
2-A 平野氏は実は読んでぱくったが、新潮社は平野氏の弁明を信じ、何の手も打つ必要は感じなかった。
2-B 平野氏は実は読んでぱくり、新潮社はそれに気付いて『生活と意見』第十三回にあるような手段で糊塗しようとした。

1-Aを信じるためには、平野氏および新潮社の全き善意を信用する必要があります。ただし、どちらも確認は不可能です。1-Bも大いにありそうなことではありますが、そう信じる為には、平野氏の善意を信じる必要があります。2-Aも十分に起り得ることですが、そう信じるためには新潮社の善意を無条件に信じなければなりません。2-Bは最悪のケースですが、残念ながらこういうことが起らなかったと信じるだけの証拠を、新潮社も平野氏も提示していません。

もっと簡単に纏めましょうか? 平野氏が白であるか黒であるかは、平野氏の弁明後も定かではなく、そもそも、何が起ったか、には全く関係がないのです。平野氏が完全な白でも、新潮社の誰かが2の可能性を懸念するだけで、Bは簡単に引き起されてしまう。題材の重複を懸念するだけで、同様の事態は起ってしまう。更に1にはもう一つの不幸な可能性があります——誰かが心配になるような類似が、全く偶然に、あったかもしれない。とすれば、平野氏が全く知らないところで何かが行なわれなかったとは断言できない訳です。実際、平野氏デビュー時の一連の騒動を考えていただければ、どこかで誰かが神経過敏になっていたと考えるのは、それほど不自然とは思いません。

平野氏が批判すべきは新潮社の過激なプロモーション戦略であって、巻き添えを食った「売れない作家」ではありません。ああいう売り込みを掛けようなどと誰も考えなければ、平野氏が実際にぱくっていてもいなくても、『鏡の影』と『日蝕』は普通に共存できた筈ですから(実際、そうなるものだと私は思っていたのですが)。迷惑掛けてすいませんと一言詫びて欲しいくらい、というのはそういう意味です——実際にぱくったのだとしても、全く偶然であったのだとしてもね。

たぶんこれだけではご満足いただけないでしょうね。ギャラリーというのはひどく貪欲なものですから。それはもう皆様、証明がないのは言い掛かりだからだろう、とか何とか言って煽るあおる。確かに、私の手元には皆様垂涎の証明とやらが、『生活と意見』第十三回をupした段階から置いてあります。ただし、それを公表するのは、言い掛かりだと言い掛かりを付けられて非難轟々になり、作家生命が危うくなってからにしようと決めています。だって、さ。

まじに証明されちゃったら平野氏が困るでしょ?

私は別に最初から、ああいうやる気満々(だった、と言うべきですかね)の作家を葬り去りたかった訳じゃないんですよ。どうもこれは抗議の声を上げなければこのまま抹殺だなと思って公にしただけで。むしろ彼には、私が大迷惑を被った見返りとなるべき、立派な作品を書いてもらわなければ、こっちは死んでも死に切れない。作家一人踏み付けにしてデビューを飾ったなら、それだけの価値を証明してもらわないとね。また現在平野氏が演じている、今の文学とは何なのかを知らず、理解しようという気もない大衆の前で半世紀前の文豪のポーズを演じて彼らを繋ぎ止めておく仕事というのもなかなかに悲劇的で崇高なものだとは思います(ああいう時代錯誤な《文化人》がどうしても必要なのだとは、文学に限らず、あちこちで聞かれるところでもありますし)。もちろん、彼には作家として長生きして貰わなければなりません。ところで大衆とは、即ち、大衆です。私がどんなにぱくり自体はOKと言っても、うるさがたがオリジナリティそれは虚妄と口を揃えても、具体的な類似が指摘されたが最後、ショーは終り(或いは私の方が今度こそ抹殺されて終りかな?)。その段階でどんな実質を具えていたとしても誰も気に掛けない。私は平野氏にとどめを刺す気はありません。もちろん、私以外の誰か評論家が指摘するかも、などというご心配も全く無用です。批評の機能不全がこのショーを可能にしている訳ですし(ということを悟るのに六年掛りました、ほんと)、作品を「感じ」ではなくきちんと分析して、似てる、似てない、と言うだけのスキルのある評論家は実際皆無です。いたとしても、仕事くれるかもしれないところを怒らせる度胸は誰にもないみたいだしね。かくてショーは続く訳です。誰にとっても結構なことでしょう? 

ともあれ、ブログ版の文句の最初にも書いた通り、私にとっては全て過去のことです。こっちはこっちで何とか生き残ってやっておりますし、平野氏も鱗一枚剥がれた様子もないのは何よりでした。あんたらで勝手に判断したら、という姿勢は今のところ変える気はありません。もちろん下手糞な判断は喜んで嘲笑させていただきます。

それでは。

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