2009.06.17

20. 質問にお答えして

最後に更新して以来、何通もの、本来お答えすべきメールをいただいているのですが、それについては次回更新ということにさせてください。サボっていて申し訳ありません。去年の佐藤は死んでいた、ということにしてください。

で、今回の文句再開の理由は、例の拉致監禁強姦ゲームについてのメールをいただいたからです。

差出人:ワタナベ
件名: 規制問題について、文句ではなく質問です
日時: 17 juin 2009 09:34:30 HNJ
宛先: monk@zag.att.ne.jp
ワタナベといいます。最新の日記で虐殺ゲームと陵辱ゲームの違いについて触れらている点について質問です。
GTAのごたるゲームを作り、強制イベントではないにせよ、
やろうと思えば電車に入って拉致監禁強姦妊娠ゲームもできる、というエロゲー機能を持った
虐殺ゲームは、大蟻食様的には許せますか。
拉致監禁強姦妊娠という表現それ自体ではなく、表現の「され方」が重要なのであれば、
一見全く別のシリアスなゲームを装って、プレイヤーの選択によっては陵辱ゲームとして
楽しめるような「エロゲー」は規制の対象にならない。
大蟻食様はポスタル2のような「手段」を用いれば、陵辱も表現として許し得ると書きます。
しかし、国や法はそれを許さない気がします。国や法は今後、表現の作法などではなく、表現それ自体を
徹底的に弾圧しようとすることが予想されるからです。
そうなったとき、大蟻食様に「重要なのは作法だ」と虐殺×陵辱ゲームを擁護してしまうのでしょうか?
仮にGTA級のクオリティを持ったゲームが、プラスαで強姦妊娠イベントも楽しめる場合、
大蟻食様はそれを擁護するのでしょうか?
そうしたゲームが強姦妊娠イベントのみをマイナーチェンジで新作へと置き換えて、
エロゲー業界共通の「オブラート」として便宜的に虐殺ゲームが用いられた場合、
それは大蟻食様的には許せますか?
更には虐殺に限らず、もっとより穏当で、隠蔽力をもった、シリアスな「オブラート」の
誕生も考えられます。
拉致強姦妊娠もやりようによってはOK、では規制派の自分としては少し不安なのですが。


日記でお答え頂けると嬉しいです。

返答させていただきたい問題は二点です。

まず第一。

国や法は今後、表現の作法などではなく、表現それ自体を 徹底的に弾圧しようとすることが予想されるからです。

これは、今回の問題において多くの人が懸念している問題だと思います。拉致監禁強姦ゲームに対して厳しい見解を持つ人でも、この一点において規制に反対という人が殆どであるようです。で、こちらの回答はですね、

社民党じゃあるまいし、いつか来た道、みたいなこと言ってる奴は糞の役にも立たん。

ということになります。自衛隊の海外派兵だの何だのに関して「いつか来た道」とか言ってる奴は、実際、糞の役にも立たない——この国が何やら空恐ろしい状況に陥りつつあるとしても、それは一度も来たことのない道であり、だからこそ怖い訳です。ミュンヘン会談を忘れるな、というスローガンが、政治的選択においてどれほどの間違いを引き起してきたかを考えたら(これをやるのは専らアメリカですが)、いつか来た道、は、政治を考える上での禁句にした方がいいと思っています。歴史は、ヘンリー・キッシンジャーに言わせれば、事例でしかありません。研究には値しますが、そのままの形でもう一度来ることはない。

今回の「お上」の規制の、もっと当り前の、全く単純な、大して面白くもなければ遠大でもない理由に誰も触れないのが、私は不思議で仕方がありません。即ち、輸出産業としての「二次元」のクリーンアップであり、児童ポルノの規制も理由はそれだろうと。中国がパチ物を規制しはじめたのと全く同じ理由、と言ってもいい。この国だろうとどこだろうと、何かの政策が採られる時、最初に疑うべきは経済的な理由です。表現全体を規制するつもりだ、と言うなら、それによってどの経済部門がどのように得をするのか、という説明ができないと、説得力は皆無です。

表現規制なんてね、大方の人は、自由を求める戦いによって撤廃を勝ち取ってきたとか教えられているかも知れないけど、実際には金ばっかり掛かって効果が全然ないので、反対の声が上がるのを好機に「お上」が恩着せがましくやめてやった、というのが実態です。血道を上げて裏の裏まで洗い始めると国が潰れる。これもまた経済的な理由です。国家が無限の権力と無限の経済力で我々を圧迫してくる、とかいうのは、ヒッピー流のパラノイア的妄想です。

それでも「いつか来た道」が心配な方、もしそうなら尚更、我々は地下で生き延び活動するテクニックを身に付けておかなかればならない。地下が普通にある生活に馴染んでおかなければならない。

それから次、GTA問題ね。GTAの場合、裏は MODという形で存在します。自動車や武器のカスタマイズといったものから始まって、確かハードコアな性交場面が見られる、というものの噂も聞いたことがあります。大抵は自主制作自主配布です。

で、こうしたものは全くの私的な領域に属するものである訳です。入れたい奴が自分のリスクで入れるものです。ゲームメーカー自体は、そんなの知りません、と言うでしょう。故に完全に私的な領域の話なので、これまた私が口を出すことではありません。

そして仮に凌辱ゲームのメーカーが生き残りに危機を感じ、どこかから拡大公開系超大作級の予算を調達してきてGTA級のゲームを作るとしたら——或いは、まあそれは無理でしょうから、そこそこの予算で、結構面白いゲームを製作するとしたら、その時には既に普通のゲームメーカーになっている訳です。故に、別段凌辱でビジネスを危機にさらす必要もない。本体部分に努力を傾注する方が得策でしょう。もしかすると、創業当初の志を忘れないために裏で仕込んでいる、とかいうことは充分あるでしょうが(チートコード入れると凌辱モードが選択できるようになる、とか——MGS4とかもそうやっていたら、本体はもっとすっきり面白く仕上がっていただろう)、ゲーム本体に充分な価値があるなら、誰も凌辱ゲームとは言いません。凌辱部分はあくまで裏の、私的なものです(尤も、本体に組み込まれていたとなると色々言われるでしょうが)。でかい声で言わないように。面白いゲームがたかが付録で問題にされることは避けたいからね。

自分たちが何をやらかしているから嫌われるのかという自覚もなく、その程度のこともできない/しない上に、「表現の自由を守れ」だから、いっぺん弾圧されてこい、という話になる訳です。この国の官憲は糞だから弾圧は御免、は、圧倒的な正論ではあるでしょうが、擁護の対象が、恥も知らない知恵もないではどうしようもない。更に、女性としての立場から言うなら、諸外国で実施されているレベルの規制は平均的な行政サービスであり、何故この糞国家に住んでいると、そうした文明国平均程度のサービスも享受できないのか、という当然の疑問が出て来るでしょう——お国が何を狙っているのか、などとは全く別の理由でね。そうしたサービスを諦めろと言うなら、諦めるだけの理由と見返りは具体的に提示される必要がある。お国が表現を弾圧するよお、みんな殺されちゃうよお、怖いよお、などという、クスリやりすぎて壊れたヒッピーの妄想みたいな話には、正直な話、私は付き合えないのです。おおよそ、いかなる意味でも、リベラルの人ではないのでね。

*   *   *

ワタナベさんの続きです。

差出人: ワタナベ

件名: 規制問題について、最後の質問

日時: 18 juin 2009 06:54:35 HNJ

ワタナベです。早速の返答ありがとうございます。経済効果というのは説得力を感じました。

GTA4が、よりリアルで生々しい描写になっているにも関わらず、前作で入っていた

規制が一切なく国内版が発売されたのは、そのせいだったのかもしれません。

だったら、SAも規制なし版を出せよ、と言いたいところですが、

そこが「お上のいい加減さ」というやつなんでしょうか。それくらいは我慢しろ、と。


最後にひとつ質問なのですが、今回は陵辱「ゲーム」が差し当たり規制の対象

になるようですが、小説、漫画及び同人誌などでもエロだけを目的とした

作品は多く見受けられるようです。中には今回話題となった

当該の拉致監禁強姦ゲームより陰惨とも言える内容を持った小説、漫画、同人誌も

あるようですが、これらについて大蟻食様はどのように考えられますか?

ゲームとはやはり何かが決定的に違うのでしょうか。

GTA規制の経済効果の話、というのはよく飲み込めないのですが、SAにおける女衒ミッションのカットが殆ど意味不明であったことは確かです。まあ道徳的ではない、ということでしょうが、よその家からテレビを盗んでくるミッションに比べてどの程度不道徳であったのかは、ノーカット版をやっていないので分かりません。ただ、それで懲りたので、GTA4からは北米版でやっています。国内での流通が一切断たれても(たぶんRockstarはそういうことがないよう頑張ってくれるでしょうし、作品としてはますます良くなるでしょうから)何らかの形で入手を試みることは間違いありません。単純所持禁止を食らっても平然とやるでしょうね。法廷に引張り出されたら、これはMoMA級のアートだぞ、その芸術性が何故お前らには分からん、と平気でぶつでしょう。そのくらいの値打ちは十分にある。

あと、規制の一貫性について言うなら、GTA4には女衒ミッションのようなお下劣ミッションはなかったから、という理由だろうと思います(お下劣だったりお馬鹿だったりするのがSAの良さではある訳ですが)。この国の規制が暴力に対して緩いのは事実です。まあ「お上」はいい加減であるに越したことはありません。どうしてもということなら、輸入版を手に入れることです——国内の規制なんか屁でもない、ということを示す為に。

規制の対象についてですが、最終的にはアニメ・漫画も対象にされるだろうと考えています。小説は輸出品ではないので入らないだけでしょう。同人の規制は、実際の規模がどれくらいであっても、内輪なので無問題であるべき、というのが私の立場です。というか、公私の別の尊重という点から、同人規制には積極的に反対です。ただし同人であっても一般書店に並ぶという状況を考えた場合、規制の可能性は常にあるし、用心はした方がいいとは思います。

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2007.10.05

19. 続きです。

ヴォルフヴィッツの彼女の写真のありかを教えて下さった方、『バーチウッド』の誤植を指摘して下さった方、どうもありがとう。それから一緒に『300』見た人のメールもあるんですが、この二通は飛ばします。で、続きね。

From:
Date: 10 juin 2007 18:32:21 HNJ
Subject: 『文句』ではありませんが

佐藤亜紀先生

初めてメール致します。倉澤と申します。

昨日御講義を拝聴した後、『1809』にサインを頂いた者ですが、
その際に(確か)旧作ですみませんといった内容の非常に無礼な
言葉を吐いており、御詫び申し上げたくメール致しました。

新刊の『ミノタウロス』でなくしかも文庫版ですみません的な事を
言ったつもりであったのですが(どちらにせよどうでもいい一言でした
・・・すみません)、緊張と体調不良で阿呆な事を口走っており、
大変失礼申し上げました。

先生の映画を語る際の視点が新鮮で、御講義興味深く拝聴して
おります。私もここ数年暑さに弱く次回までの空き加減は嬉しい限り
です(観ていない映画も多いので)。今後も楽しみにしております。
失礼致しました。

特に感じ悪いとは思いませんでしたよ。お気になさらず。御都合がよろしければ十一月にお会いしましょう。

From:
Date: 22 juin 2007 12:32:19 HNJ
Subject: はじめまして。

佐藤亜紀様

はじめまして。ヨシマルと申します。
お恥ずかしながら、佐藤亜紀さんのことを昨日知ったばかりです。。。
TBSラジオのポッドキャスト「ストリーム・ブックレビュー」というコーナーで、
ライターの豊崎由美さんが、「ミノタウロス」を絶賛しておられました。
それを聴いてすぐにこのホームページを検索し、そこでの文章を一気に読みました(感想は、自分の無知、未熟さを全て棚に上げての「おもしれ〜〜!」です、、、)。ですので、重ね重ねお恥ずかしながら、私はまだひとつも佐藤亜紀さんの小説作品を読んでおりませんで、にも関わらず、こうしてメールを書いていることになります。。。。

というわけですので、大変恐縮しながらの「文句」になるのですが・・・。

2005年の9月、10月の日記(これまた古い話題で申し訳ありません)に、
「爆音上映」に関する文章があります。
最初は新聞に書かれたその記事に対する意見を佐藤亜紀さんが日記に書かれて、
そのあと、その日記を読んだ阿部和重さんと中原昌也さんが、
「文学界」誌上でその事に触れていて、
そして更にそれを読んだ佐藤亜紀さんが、再び日記でその件について書かれています。
佐藤亜紀さんはここでの問題について、阿部和重さんの体質に焦点をしぼり、
最大の問題として、
「クラシック至上主義者=ナチ」
という発言を挙げています。
このへんのくだり、何度読んでも、阿部和重さんがそう発言したと読めます。
でも、実際にその発言をしたのは中原昌也さんの方です
(単行本化された「シネマの記憶喪失」に掲載されている限りでは・・・)。

「文句」というより質問です。
ただ単に間違えていたのでしょうか? 意図的に書いていたのでしょうか?
そして、どちらにしても、現在、阿部和重さんと中原昌也さんをどのように思われているのでしょうか?

ヨシマルシン

うっへえ、単行本にもあのまんま入れちまったんですか? 困った方々だな。せめてblogのURLくらいは入れてあったでしょうね? それとも佐藤なんか知らないという方々に脳内佐藤(映画に関しては役者の衣裳がいけてるかいけてないかしか言うことのないお下劣低能おばはん)を刷り込むのが目的なのかな? 何にしても卑劣なことで。

問題の発言に関しては、確認しました、クラシック聞く奴=ナチ、と言っているのは確かに中原氏の方です。中原センセの才能については、最初の頃は買わないでもなかったのですが、最近は何か、鬱のイウォークをお笑い番組に引っ張り出して立ち往生するのに爆笑していたら、本人もすっかりその気になり、立ち往生こそお笑いの神髄と言わんばかりになっちまった、みたいな。立ち往生の伝道師中原師の発言だと思わなかったのは、この人の才能があまりにも(信号音)的だったが故の誤りです。どうもすいません。

とは言えね、特にチャレンジされてはいないというなら戦後のワーグナー上演史も知らずにナチ呼ばわりは単純に恥ずかしいよ(ワーグナー=マーチだと思ってたエドマンド・ウィルソン級に恥ずかしい)。色んな演出のやつがDVDで出てるから、ちゃんと見て、考えて、それから言おうね。

それから当該記事の阿部氏の体質に関する記述は、ナチ、を抜いても(阿部君もちょっと勉強して考えようね)基本、一緒だと思います。ABCあたりで芥川やって上がりということにしておいた方が良かった作家、というところでしょうか。

意地が悪くて申し訳ありません。当該記事には後で訂正の註を付けておきます。お二人とも、文壇の制度に取り込まれて切れ味が鈍ってきているのがとても残念、と言っておきましょう。特に中原! 文學界の身内引っ張って来る映画対談全然面白くねえぞ、闘魂注入されたいか? もっと気合い入れろ、気合い!

From:
Date: 5 juillet 2007 09:49:38 HNJ
Subject: 佐藤先生はじめまして

先日サイト内の過去の日記を拝読しておりましたところ、『ショッカー幹部パーティーワインセット』なるくだりを目にし、見た瞬間通勤電車内であったにもかかわらず大爆笑してしまいました。こういうの、ソリッドリライアンスの寿司UBSメモリと同じくらい大好きです。 最近は笑うことが少なかったのですが、その日は一日中良い気分でした。
暑い日々が続きますが、どうぞお身体大事になさってください。新刊楽しみにしております。それでは

結局ワインセット買いませんでした。しくしくしく。

From:
Date: 29 juillet 2007 10:02:23 HNJ
Subject: 文句ではありません

繁村と申します。

日記をいつも楽しみに拝見しています。
7/21の記述に、「イラク戦争の後遺症で俳人と化した親父であり」という誤記があることを
お伝えしたく。

ご指摘ありがとうございます。後で訂正いたします。

From:
Date: 13 août 2007 10:19:05 HNJ
Subject: 著作リストについて

佐藤亜紀様

アマゾンで新刊が出ていないか調べたところ、『バーチウッド』を見つけたので、どのような本なのかと久々にブログを見に来ました。
ブログでもっと宣伝してください。

5月に、『ミノタウロス』を買ったころは古代史の本を読んでいて、「いよいよ読むものがなくなったときに、まだ佐藤亜紀の新刊があるのはなかなかの贅沢ではないか」、と考え、枕元に積んでおきました。
今月に入って、『ガリア戦記』、『ゲルマーニア』、『アナバシス』、と野蛮な本を立て続けに読んで、さあ読むものがなくなったというときに、枕元に残っていたのが、『ミノタウロス』で、読み始めるとこれまた野蛮な話なので、愉快な気持ちになりました。
今主人公が賞金稼ぎに出かけたところです。

著作リストの、『雲雀』の文庫の値段が、単行本と同じになっています。
ブログの2007年の1月6日から3月15日まで、リンク先の年がところどころ間違っています。2007年のところが、2006年になっています。

長谷川伸

ご指摘ありがとうございます。訂正しておきます。
それから本の宣伝ですが、自分ではしないことにしております。御寛恕あれ。

From:
Date: 11 septembre 2007 17:41:39 HNJ
Subject: 日記を読んでのお返事です

私といたしましては、亜紀と言えば向井でもなんでもなく佐藤だろうと言う位、信頼尊敬に値する人間性と教養、文筆能力に長けた方のお名前で、別の色紙に書いて頂いたものでもありませんでした。
私が持参したご著書にサインを頂いた訳ですし、それが花押でも似顔絵でも落書きでもかまわない嬉しい事だったのです。書き損じと言うほどの事でもないし・・・
日記を拝見して、上記の心持の者としては、黙っておこうと思っていたのですが、・・どうにも申し訳ない・・と記されていましたのでやはり連絡だけでも、と。
お心遣いのお礼に、ちょっとしたニュースを添えておきます。オペラをお好みの方なので、おそらく喜ばれるかも、と思いまして。阿佐ヶ谷のヴィオロンと云う斯界には少し聞こえている喫茶店の主が友人でして、レコードではありますが限定復刻の名品を手に入れてくれました。名高い1955年バイロイトでの指輪の録音です。以後の演奏が物足りなく思える程の出来です。私は客の引ける時間帯に行って聞くのですが、ご連絡下されば彼に言って、佐藤さんが楽しめるであろう店の空き予定を聞いておきます。ここは面白いものが多いのですよ。ミニコンサートなどで貸してしまう時間も多いのでいつも機嫌良く使えるわけではありません。
失礼なファンとお怒りにならないで、聞いて欲しいのは、肝っ玉オッ母的体型になっておいでで、肝臓腎臓系の未病が疑われまして心配なのです。大変なエネルギーを要するお仕事ですしその分篭るので、以後の待望作にもいずれ支障をきたしかねないと恐れるのも、佐藤さんの活躍が喜びであるファンの正直な心配です。武道やアジア医学系の知識をかじっているもので、そこからつい・・・
機嫌良く、活躍してください。
今、バーチウッドに興奮しております。

今泉裕士

From:
Date: 13 septembre 2007 23:53:12 HNJ
Subject: ごめんなさい。

ありがとうございました。
そして大変失礼をいたしました。
人様のお体に関する事等、深い関わりも無い者が口にしてはいけない事でした。私はそこに好悪の情を持ちませんので、つい大好きなお方のお姿に接して嬉しく、しかし心配な兆候を感じて素直な気持ちだけでこの機会に吐き出してしまいました。
これだから女性に不可蝕賎民かヒジュラの如く疎んじられ、この歳まで幼児か老婆以外にモテタ事が無く独身をかこつ羽目になるのですが・・・
とにかく許して下さい。
私はこのような人間です。
http://web.mac.com/imaizmiyuzi/iWeb/Site/
つい変な勢いがついて、長年先延ばしにしていたウェブログを始めましたので。
自己紹介などしてもらう必要ない、関わりの無い輩という感じでしょうか。
忘れて下さい。
お元気な活躍を祈っております。

今泉裕士

オーバーウェイトは事実ですので、気にはしておりません。ご安心下さい。しかし30歳以上の女性の望ましい体脂肪率下限まで絞っても、普通の同身長の女性より十キロは優に重い、ってのはどういうことなんでしょうね? いよいよスコットランドの丸太投げおやじだ。

それから、そう、名曲喫茶です。すっかり数が少なくなりましたが、近所にも一軒ありまして、これがまた凄いスピーカー入れてるのな。穏やかぁな曲しか掛けてないけど、あれでワーグナー爆音で掛けたらすごいだろう。

1955年のバイロイトの指輪というのは、カイルベルトのやつですよね。『ジークフリート』のCD出た時に買いましたが、オケはいいものの歌手たちがちょっと不調じゃなかったですか? よろしければ感想、詳しくお聞かせ下さい。



というところで終りと思っていたら、駆け込みで二通、文句が来てました。


From: "Harada"
Date: 5 octobre 2007 03:01:51 HNJ
Subject: 「文句」ではありませんが

大蟻食様

 初めて、メールいたします。別に文句ではなく、質問なのですが、お答えいただければ幸いです。

 えーと、確かはるか以前の日記の中に、大蟻食様が日本でも覚醒剤の使用を認めたらどうかといった内容があったように思うのですが、(記憶違いだったらすみません)何故、そのようなお考えを持つにいたったのでしょうか?
 実は私は強迫神経症を患っておりまして、精神安定剤を常時服用しているものなのですが、発症したての頃、かなり強い薬を処方され、色々奇妙な行動をとってしまいました。
 それで思ったのですが、ダウン系ではなくアップ系の薬を服用した人物はバッド・トリップになる可能性があるわけで、そうしたらその人物が幻覚作用で殺人等の凶悪犯罪を起こす可能性があると思うのです。
 大蟻食様のことですから、そのあたりは十分承知しておられると思うのですが、それゆえに「何故?」と思った次第であります。
 稚拙な質問ですみませんが、どうかご返答よろしくお願いいたします。

                            尚

追伸 メルアドの公開は、できればしないでいただきたいのですが・・・一応、女ですので。今でも「バイアグラ買いませんか」等の迷惑メールの削除にため息をついております。

さすがに覚醒剤の解禁は提案しておりません。また、解禁している国というのも寡聞にして知りません。ただし、マリファナやハシッシュくらいならいいんじゃないかとは思っております。また、ドラッグに限らず、アルコールの場合でも、それで事故や事件を起した場合には通常より厳しい処罰が望ましいとも考えております。

From:
Date: 4 octobre 2007 23:06:38 HNJ
Subject: アンチ宇宙戦争?

佐藤先生、こんばんは。
いきなりですが、質問をひとつだけ。

佐藤先生の宇宙戦争評、興奮してよみました。喉に引っかかっていたものがすーっと取れた気持ちよさでした。それにしても、この国の映画評論家ときたら……いえ、その文句はやめておきます。

それで、「ミノタウロス」です。この作品は、スピルバーグの宇宙戦争へ対する「アンチ」で書かれたのですか?

それだけお聞きしたいです。よろしくおねがいします。

人間が灰になり衣服だけが残る、というのを、R15指定とかを食らわないための小細工と見るか、他のところ——たとえば『シンドラーのリスト』の灰と結び付けて震え上がるかで、あの映画の評価は随分違ってくると思います。私は後者の方でした。派手な流血を映していたら、あそこで描き出されている虐殺の恐ろしさは表現できなかったのではないかと思います。

『ミノタウロス』について言うなら、『宇宙戦争』は書き始めた後の公開だったので、直接の関係はないとも言えます。ただし、そこで描き出されている大量死と難民化、間抜けなドイツ国防軍の兵隊みたいに地下室に入ってきて水を飲んだり写真を見たりしている宇宙人まで含めて、人の情を持っている筈の人間が一番怖いという状況に(何と言っても怖いのはあの子役の顔だ——ちっちゃなメリル・ストリープみたいな白い顔で、明らかに「こいつを殺して」って表情をする)、『ミノタウロス』と通底するものがあるのは事実です。『宇宙戦争』が『インディペンデンス・デイ』的なハリウッド映画(ちっ、言っちまったぜ——普通他人がこれ言うとわたしゃ怒るんだが)に対するアンチだと考えれば、『ミノタウロス』は『宇宙戦争』の側にありますし、両者(『宇宙戦争』と『インディペンデンス・デイ』)をひと括りにするなら、アンチだという解釈になるでしょう。

という訳で、漸く溜っていた分を更新いたしました。今後はまめな更新を心掛けますんでどうぞよろしく。文句の宛先はmonk@zag.att.ne.jpです。

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2007.10.04

18. 七箇月ぶりの文句です

どうもすんません。だらけてました。八ヶ月ぶりの文句です。期限切れのが沢山ありますが、お詫びもかねて掲載・返答させていただきます。

From:
Date: 23 mars 2007 15:29:54 HNJ
Subject: 公開講座

>明治大学で五回、公開講座をやります。一回目は五月十二日土曜日午後二時から、リバティタワー(旧カザルスホールの向い側)十階の1106番教室にて。百四十人収容と聞いてびびったんですが、お呼び下さった高遠弘美先生に見せていただいたら、ええまあ、もっとでかい教室でやったこともあります、マイクなしで

という点について。
もうちょっと詳しく教えていただけるとありがたいんですが…。
明治大学公開講座で調べてみたんですが、まだいろいろが未定なのか詳細が出ていませんので。

Q.どういうことやるんでしょうか。あまり高度でついてけなくてもいやだし、公開講座だってなもんで、やわくてもがっかりだし…(というこれはないと思うが)。佐藤亜紀の講座なるものに行ったことがないので想像・見当がつきません。佐藤亜紀の小説が好きなら、理解できる感じでしょうか?

 

こういうのはきちんと間に合うようにupすべきでした。ごめんなさい。
後からの話で申し訳ないのですが、今のところは映画を例に、表現における「痛み」について話しています。映像によって表現された「痛み」の変遷と社会の変化、或いは、観客が感じ取る「痛み」を表現者はどう利用するか、とかで前期二回は終りました。十一月は「痛み」や「衝撃」の映像的利用についてもうちょっと突っ込んでみます。作例はエイゼンシュタインの「ストライキ」(エイゼンシテインが正しい、とかいう話はちょっと措いといて下さい)、シュトローハイムの「メリーゴーランド」、グリフィスの「イントレランス」あたりを作例として使います。そんなに難しい話はしていないつもりですが、でもまあ多少は、大蟻食的に、こむずかもしれません。わからないところがあったら授業の後ででも質問して下さい。メールでも構いません。今度は至急更新いたします。

Q.公開講座ってお金かかるんですか? かかるとしたらいかほど…?

 

無料です。

Q.対象として適切なのはどんな感じのひとですか。もちろん「公開」なのだから誰がいってもいいわけですが、どういう人に対して講義する予定でいますか? あまり自分が場違いでも…。

特に学生が多いということはなさそうなので、場違いとかいうことは一切ないと思います。

文句の回答としてでなくて、告知としてでもいいので教えていただけると幸いです。

いやもう、こちらこそ非常に恐縮です。単発参加でわからないというものではないので、時間があったらおいで下さい。

From: "nana takanashi"
Date: 16 avril 2007 09:59:01 HNJ
Subject: 文句がないのにメールしてすみません

佐藤亜紀さま

 初めてメールをさせていただきます。といって、実はまったく文句ではないメールなので、ここにお送りしていいものだろうかと、多少びくついていおります。でも、どうしてもひと言申し上げたくて、ほかにメールを送れる宛先もないようですので、ここに書かせていただきました。「忙しいのに・・・まったく!」と思われたら、ごめんなさい。もうしません。とお詫びします。

 私はまったくの偶然から、図書館で「雲雀」を手にし、ものすごくこの作品を好きになってしまいました。こんなふうに月並みな表現しかできなくてすみません。自分でもボキャブラリーの貧困さが歯がゆくてなりません。でも、もう「好き」とか「恋してる」とかという言葉しかぴったりこないのです。理屈ではないのですから。私はこのところ、しばらく図書館通いをして現代作家の作品を濫読していました。主に女性作家のものを読もうと思い、次々読んではみたのですが、いいとは思うけど夢中にはなれないかな・・・という作品にしか巡りあえませんでした。けれど、「雲雀」は違いました。もう夢中でした。ほかに何をするのも嫌になるほど。こんなに夢中になれる本に巡り合えたのは、本当に久しぶりです。ジェルジュという青年は、なんて魅力的な人でしょう。メニッヒ兄弟はなんてチャーミングなんでしょう(ことにカールは)。この作品は、悪役、敵役すらも私には魅力的に思えました。そして、深刻でありながらユーモア漂うこの作品のすべてに、ただただ快感を覚えました。うれしくてうれしくて、すぐに「天使」を借り、(借りて、なんてごめんなさい。これから購入します)読んでいます。そして佐藤亜紀さんとはどういう方なのか、とても知りたくなり、ネットで検索してこのページを読んでみたら、これがまた作品と同じくらい素敵で痛快な方なので、ほとんど躁状態になるほどうれしくなって、思わずメールをしてしまいました。HPの文章は、私の好きな笙野頼子さんをちょっとだけ彷彿とさせられたのですが、笙野さんは佐藤さんのお好きな作家のひとりであるということも知り、これまたうれしくなりました。こんなずうずうしいマネをしたことを(つまり、作者の方に自分の感想を勝手に送りつける、ということですが)、後からきっと後悔すると思いますが、でも、躁状態のまま今は書いてしまいますね。

 「文学界」というところでは、いろいろご苦労もおありと思いますが、これからもこんな素敵な作品をどうか書きつづけてくださいませ。私もこれから手に入る限りの佐藤さんの作品を読みつづけます。いつかまた、ジェルジュのお話を書いてくださったら、本当にうれしいです。ずっとお待ちしています。この作品と佐藤亜紀という作家に出会えた幸運を(神様か運命か何かに)感謝します。

素敵な感想、どうもありがとうございました。図書館の件は私は全く気にしておりませんのでご安心下さい。買っていただければもちろん嬉しい訳ですが、あちこちの図書館に所蔵されているというのは、私くらいの部数の作家にとっては非常に重要なことですので、それはそれでありがたいことです。

今後ともどうぞよろしく。

From:
Date: 11 mai 2007 19:14:49 HNJ
Subject: ご講演楽しみにしております。

大蟻食さま

明日のご講演、私も拝聴させて頂くことにしました。とても楽しみでわくわくしております。
ところで、例のテープ起こしの件ですが、やるかどうかは別として、録音させて頂くのはNGでしょうか?
加えて、もしお許しがあればビデオにもとりたいなーなどと考えているのですが、いかがでしょう?

東京から遠くて参加不能だけれど、是非ご講演の内容は知りたい、というファンは沢山いるようですので。

時期が差し迫った今になってからのご連絡、大変申し訳ございません。

ぷりぷりざえもん

From:
Date: 11 mai 2007 19:18:17 HNJ
Subject: 忘れておりました

大蟻食さま

先ほどのメールは、文句ではないです。

別にブログで公開されてもかまいませんが、そういう内容ではないかと思いますので。
それから、万が一公開されるときは、大変身勝手なお願いですが、本名は伏せて頂きたく思います。

私一人の問題ならば別にかまわないのですが、私のブログでは、沢山の実在の人間のプライベートな事も書いているので、ということです。

それでは。

ぷりぷりざえもん

From:
Date: 11 mai 2007 20:05:50 HNJ
Subject: Re: ご講演楽しみにしております。

大蟻食さま

お返事ありがとうございます。

公開はダメ、とのこと。了解いたしました。

残念がる人が沢山いるでしょうが、参加できる私としてはそれも愉快です。

ぷりぷりざえもん



前期二回の内容については今のところ色々な方がまとめてblogにupして下さっています。後期についてもやって下さる方がおいでだと思いますが、この場で謝意を表明させていただきます——どうもありがとうございます。後期も宜しく。

From:
Date: 22 mai 2007 16:54:27 HNJ
Subject: 公開講座に関して

公開講座一回目参加してきました。

大変興味深かったと同時に、HPを見ているものには結構おなじみの話題も出ましたね。ハガレンもです。ひそかに嬉しい限りです。

映画のチョイスも、なるほどと思いました。
911テロについての洞察に関しては、すこし違和感がある点もありました。
私は、テロ当時留学中でアメリカにおり(カリフォルニアですが)、そのときのアメリカの(カリフォルニアでの)感覚は、「唖然」と「してやられた」「しかも見事に」という感じでした。旅客機でビルに突っ込むなんて、はっきりいって芸術的かつ最大限の被害を出す、考え付かない方法をやられた、という感覚です 。後づけの感覚ではなく、それがまさにそのときの感覚だったのです。「ビルが旅客機を飲み込んだ」という言葉がその日ニュースで言われていました。

私個人の印象としては、まず寝ている朝に日本の家族から「気をつけるように」と留守電が入っていて。意味が分からず、チェルノブイリ原発的なこと想像してテレビをつけたら、NYのビルから煙が。(そのときはまだワールドトレードセンターは崩壊していませんでした。2機、突っ込んだところ)その映像を見た瞬間に、わたしは「あ、宇宙人の襲撃だ」と本気で思ったのでした。

インディペンデンスデイで、NYのエンパイアステートビルのてっぺんに、爆弾みたいなのが放射される映像があって、あれと猛烈にだぶったからです。(もちろん私は宇宙人陰謀説を信じてはいません。)

数日して、アメリカの報道番組は、ビルに飛行機がつっこむ映像をニュースで流すのを自粛することになりました。国民の不安と恐怖を不必要に煽らないためという理由づけ。実際まったく映らなくなりました。今ではどうか知りませんが、今もたぶんそうなのでは…。日本に帰って、あの映像が平気でニュースで流れる のを見たとき、私はむしろものすごい違和感を覚えたものです。

で、思うのですが、映画としての表現方法が変わったのは、表現者側からのアイデアではなく、むしろ社会や世論の軋轢ゆえ、そうせざるを得なかったのではないか、ということです。アメリカという国、社会が負ったトラウマと、それによる表現方法の劇的変化という点においては、まったくそのとおりなわけですが。 報道番組ですら自主規制したのだから、エンターテイメントとしての映画がうかつに俯瞰図を取れない。表現者側からの自発的な変化によるリアルさではなく、やむをえずの結果とも言えるのではないか?と。

それとやっぱり映画とか芸術は、大量死・大量破壊を目撃することによる一種のカタルシスを狙ってるところも多いわけだし、死と破壊の疑似体験を求めてこちらも見に行くので、そこに美しさが集中するのは当たり前で。でもそれを美しくやっちゃうとリアルな当事者、その美しい部分を全部差し引いたむちゃくちゃを 体験することになった苦痛いっぱいの人間に怒られるから、気をつかったんじゃないか、と思うのです。このへんがどうもしっくりいかない混乱してくるところなのです。

それから一つ質問なのですが、公開講座のあとに本にサインとかお願いに行ってもいいのでしょうか…? 新作ではなく、文庫本とかでも…? 前回は、びびってそそくさと帰りましたが。遠慮したほうが良いのならばもちろん自粛いたします。

経験に基く貴重なご意見ありがとうございます。たぶん自主規制はあったのでしょうね。『トランスフォーマー』で『アルマゲドン』的な表現は戻って来た訳ですが(本当はこれを言うには『ファンタスティック4銀河の危機』を見なきゃいけないんだろうけど、劇場まで行こうという気にどうしてもなれないんですいません。ビデオ待ちです)、落下物に人間的な思考と感情を与えて軌道を制御させることで、ある種の安心感を与えようとしているのかと思ったことを付け加えておきます。死人も随分と少ないし。それにしてもタフと言おうか、物忘れの早い人々だよね。

サインに関しては気恥ずかしいけどOKです。

あと、陰謀説に関しては『サウスパーク』の第10シーズン9.Mystery of the Urinal Deuce
が結構冴えてました。パーカー/ストーンはやっぱ凄いわ。

と言う訳で、文句久々の更新前半でした。御意見御感想御文句はいつも通りmonk@zag.att.ne.joまで。

 

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2007.02.06

17.「わたしを離さないで」再び

From: ともたろう
Date: 23 janvier 2007 15:08:40 HNJ
To:
Subject: 「わたしを離さないで」について
 
はじめまして、大蟻食様。愛読させていだたいてます。

エモくて傑作という世間の声にも(こちら寄りですが)、エモを抑制したエモを拒絶されている大蟻食様にも違和感を感じたために、「小説のストラテジー」は未読でありますが今回キーボードを叩くことにしました。
とりあえず、例の愚メールにならないために自分はどう読んだか、ですが、「わたしを離さないで」のテーマは二つあります。「運命」「記憶」です。端的に言えば、”心の中で消えつつある古い世界”から離さないで、と懇願する少女のかたちが「運命」しかし、その解釈はその少女のものとズレている点が「記憶」です。つまり、ホグワーツという狭い時空間から、どうしようもなく一本道な「運命」を抜け出た、赤ん坊の回想がこの小説のイメージだと言えます。迷路の中の鼠ともまた違うのではないでしょうか。まあ、この赤ん坊が産み落とされる場所が、ノーフォークという遺失物置き場というのも非常にエモなんですが。
クローン技術や臓器移植といった問題は、このテーマを描くための(かなり強引な)装置でしかないのです。そもそも、ちょっとした社会性どころか、「わたしを離さないで」からはどんな立体的な社会もたちあがるようには思えません。この点、解説における柴田元幸の”遺伝子工学における倫理”云々といった類のことも全くあてはまらないでしょう。
この小説における「記憶」ですが、その不確かでいり混じるイメージや他の提供者たちの記憶が急速に褪せていくことは語られつつも、キャシーが回想する記憶は”黄金色のとき”を鮮明に保ち続けたままです。だからこそ、最後の場面で彼女が妄想(のような回想)を一度で終えることが、「わたしを離さないで」という回想(のような妄想)をこれでやめることにつながって、読者の胸を打つ(ようないいエモになる)んじゃないでしょうか? 
もちろん、文学的な試み(私の感覚では「かっこよさ」)という点では比較にならないとは思いますが、「わたしを離さないで」を単純な難病悲恋小説と読むことは、「ロリータ」を純愛小説として読むような危うさがあると思います。
以下、雑感です。
文章が詰まんない、というのは全く同意です。あれは、翻訳のせいではないのですか?あの語りとか「癇癪玉が破裂して」とか「先生の元気溌剌ぶりが」とか何と言うか、いい意味で印象に残った文章というのが皆無ですね。「動物の絵を持ってって自由を貰おう」みたいな幼児性も、やっぱり鼻にはつきました。でも、私も結構エモアレではあると思うんですが、それでも読めるものって結構あるんですよね。SFでいえばイーガン。
長々とやって結局、『「わたしを離さないで」はエモである』という主張にしかならず、送信をためらいましたが、ああいう読者ばかりと思われては困るので、送らせていただきます。

きちんとした文面でのご意見をいただき、非常に嬉しく思っております。

まず最初に、多少の誤解があると思いますので、「エモ」に対する私の見解を説明させて下さい。私は小説におけるエモーショナルな刺激を全否定するものではありません。エモーショナルな刺激と言っても、怖がらせるもの、笑わせるもの、劣情を刺激せしむるもの、崇高さを感じさせるもの、愛しいもの等々、色々あり、泣けるもの、もそうした刺激のひとつです。小説がそういうものを完全に欠いて成立する例は殆どないと言っていいでしょう。ただし、それはあくまで一篇の小説を成立させる要素のひとつであり、謂わばパレットの上に絞り出した絵具にすぎません。小説家の仕事は、そうした絵具を使って一枚のタブローを描くことにあります。可愛いピンク色の絵具をチューブから出してそのまま塗りたくったものを、ね、可愛いでしょ、と言って差し出されても困る、というのが、簡単に言うなら、私のエモ小説批判です。あるタブローにおいて、同じピンク色が凄まじい美しさで輝いて見えることは当然ある訳ですが、その為には明度彩度を調整し、他の色彩との対比で更に調整を加え、全体の構図の中に的確に置くことが必要になってきます。エモ小説、ないし、どこかで言われていた言葉を借りるならサプリメント小説の困りものな点は、そうした造形への意思(或いは造形しないという意思)はうっちゃった、綺麗な色を塗りたくれば綺麗な絵になるという素朴な思い込み(或いは、綺麗な色を塗っておいてやれば受けるんだからそれでいいんだよ、というニヒリズム)であり、更にそれを綺麗だと言って喜ぶ素朴な読者が山のようにいるところです。私がエモに関してひどく口うるさいのは、放置しておくと小説というものがどうしようもなく単純で平板な代物に還元されてしまうという危機感のためです。

もちろん、イシグロがエモーショナルなものをこれ見よがしに垂れ流しにしたかといえば、それはしていないと言わなければなりません。むしろ『わたしを離さないで』は押さえ気味に語られてはいます。ただし、その抑制が垂れ流しにも増して読者のエモーショナルな反応を煽ることになっていることは見落としてはいけないでしょう。語り手が静かに語れば語るほど、読み手はその背後にある情動を推察して反応する訳で、これは多少洗練された書き手なら当然心得ている「泣かせ」の技術です。問題はその後にあります。つまり、イシグロがこの巧みな「泣かせ」から何を引き出したか、「泣かせ」を越えた作品を実現できたかどうか、です。

ナボコフの『ロリータ』は、極端に単純化して言うなら間違いなく純愛小説であり、その純度を上げるためにペドフィリアという設定まで持ってくる訳ですが、同時に、異様に屈折し分裂した語り手を置くことで(たとえば語り手は、気が付いていないふりをしながら、ドローレス・ヘイズや母親シャーロットの心情を正確に語ります——ナフィーシーが言うような被害者としてのドローレス像は全て、ハンバート・ハンバートの語りを通して見えてくる訳で、そこを見落としては『ロリータ』の何を読んだことにもなりません)、その純粋さはほとんど怪物的なものに膨れ上がり、作品はこの怪物と語り手とのプシコマキア(魂の戦い、とでも言いますか)の様相を呈してくる訳です。『わたしを離さないで』がエモを通じてそうした域に達しているかといえば、これは疑問だと言うしかありません。むしろここで追究されているのは純粋にエモーショナルなものの提示であり、その意味では、非常に綺麗なお話になる筈だったもの——なったかもしれないもの、ということになるでしょう。

なったかもしれない、というところが、この小説の二番目の問題になります。お話としては確かに、寄宿舎学校という黄金の過去から否応なく追い立てられ、荒寥たる死に向かって行くという直線的な運動が抽出されるとは思います(「迷路の鼠」が多少の誤解を招いたことはお詫びします——私としてはあまりにも受動的で、少し知能に難ありかとも錯覚しかねない「運命」に対するあり方をそう喩えたつもりだったのですが。産道と赤ん坊のイメージは非常に面白いものですから、少し長めの考察を書いてみてはいかがでしょうか)。ただし、あちこちの感想でも散見されるある弱さが、この運動を著しく平板な、魅力のないものにしてしまったことは指摘せざるを得ません。その弱さとは、背景のシミュレーションの弱さです。

クローニングも臓器移植も、SF的ガジェットというにはあまりにもすぐそこまで来ている、『ニューズウィーク』あたりの先端科学特集に出て来かねない技術であり、この小説の背景にあるのはむしろマイケル・クライトンあたりが書きそうな世界です。ただし、ろくすっぽ小説になっていない小説仕立ての情報提供を書くクライトンではありますが、この小説と同じ話を書くならどれくらい細かい政治的・社会的・文化的シミュレーションを行うか、は容易に想像が付くでしょう。上下二巻必須、というところです。それだけのダイナミズムを伴う変化が、本来は、この小説の背後にあるはずです。

もちろん、それを端から書いたのではまるで小説にならず、つまりはクライトンにしかならない訳ですが、よしんば一切書かないとしても、書き手の頭の中では同等のシミュレーションは済んでいなければなりません。語り手の生活圏がどれほど狭く、外界に対する興味がほとんどないとしても、社会全体のあり方は否応なしにその生活の隅々に、本人も気が付かない間に浸透しているものであり(この状況では特に)、何より、小説の記述はそうした場所から汲み上げられてくるものだからです。『日の名残り』は歴史上実在した社会を背景にすることによって、そうした薄さを免れていた訳ですが、そこからどれだけの記述が汲み上げられてきたかを考える時、この小説における背景のシミュレーションの薄さは小説として致命的だということになるでしょう。シミュレーションの薄さは、そのまま記述の薄さに繋がってくるものです。

『わたしを離さないで』にしばしば付される疑問の大半はそこから来ていますし(何故逃げようとしないのか、という、単細胞だが根本的な疑問まで含めて)、そこからはまた別の疑問が浮かんでくることも否定できません。即ち、クローニングと臓器移植技術の、作中にあるような実用化が社会全体に齎す筈の大きな変化をきちんとシミュレートした上で物語や記述に反映させるつもりがそもそもなかったのだとしたら、そうした設定は、取って付けたよう、どころか、本当に取って付けたものなのではないか——つまりはクローニングと臓器移植技術の行く末に予測される倫理的難点を扱っていますよ、という、ニューズウィーク的識者向けの釣りに過ぎなかったのではないか、という疑念です。ともたろうさんは本質的なものとは関らない瑕瑾と考えておられるようですが、この種の疑念は小説の美的な側面にとっては大きな傷になります。加えて言うなら、取って付けたような釣りに小説の設定を委ねるのは間違いです。

(もっとも、この手の釣りを文学性と勘違いする読者は少なくありませんし、釣りをきちんとシミュレートして記述の中に丁寧に汲み上げた場合には、恐ろしい話ですが、読者の大半はそこに釣りがあったことさえ気が付かない傾向があります。故に、最も効果的に釣るには最も取って付けたようでなければならない、というのは、悲しい話ですが、事実です)

その結果、最も深刻に損なわれてしまったのは、悲しく美しいお話にするためには不可欠だった学校時代、ということになるでしょう。と言おうかそもそも、学校を舞台にした小説、特に生徒が語り手という小説は、余程のことでもない限り、書いてはならないものです。第一に、学校という場所は社会的な多様性と厚みをほぼ完全に欠いており、第二に、社会的な多様性と厚みを欠いた場所には社会的な多様性と厚みを欠いた人物しか登場せず、第三に、そうした場所と人物を使って造り出せる造形は否が応でも単調にならざるを得ず、第四に、それをろくな社会経験も言語使用の経験もない語りによって語るのでは、これはもう途中で投げるか寝るかしかない代物になってしまうことは最初から明らかだからです(ただし、こうした諸点を逆手にとって書くことは可能でしょう——これがつまりは「余程のことでもない限り」です)。

通常の学校以上に社会的な厚みを欠いた特殊な寄宿舎学校の生活を美しい記憶として振り返る『わたしを離さないで』が、文章からしてひどく退屈になってしまうのは、と言う訳で、致し方のないところです。執事語の屈折が幾らかの刺激になった『日の名残り』とは異なり、学校生活とその後の看護人の生活しか知らず、格別の文学志向もない語り手が自分の経験を語るのでは退屈にしかなりようがありません(イシグロの文体にもっと積極的な魅力があれば多少は違っていたのでしょうが)。背景が、現実世界並みとは言わないまでも、きちんと水準以上に作り込まれ、そこから様々な細部が引き出されていれば、それでもまだ良かったのでしょうが、上でも述べた通り、この小説ではそうはなっていません。時折学校の本来の機能に関る出来事が割り込んでくる以外は、例によって例のごとく退屈で凡庸な学園物の紋切り型を繰り返して行くに過ぎません。

そこから先は、作品から少し離れた、受容の病理の問題になります。

かくも凡庸に語られた凡庸な学園生活が何故、多くの人に対してこれほどの魅力を発揮するのか。ごく雑に言ってしまいましょうか。『ハリー・ポッター』でも証明された通り、学校が出て来さえすれば、何故か一定の読者は牽引できるのです。寮がついていれば尚更です。まあ、「萌え」の問題だと言ってしまっていいでしょう。この小説の相当部分は、前に言ったような薄さをそうした読者の機械的な反応に寄り掛かってしまっているように思えます。読者である我々は、既に数多のフィクションで条件付けされてしまっているので、書き込みが多少薄くとも、パブロフの犬のごとく、あるモチーフを出されたら泣いたり笑ったり怒ったり萌えたりする訳です。エモが困る、というのはそういう問題でもあります。いったい我々は(自分を除外するつもりはありません)どこまで飼いならされれば気が済むのか、と。今日の文化は、我々がより低コストで大量生産される文化的財をより多く消費するよう我々の感性を飼いならす方向に向かっているとしか私には思えないのですが(そしてそうした馴致を経たところからしか何も造り出せないとしても、文学という以上、造り出したものには、内なる馴致と格闘した痕跡くらいはなければならないとも考えています)、イシグロの作品はまさにそうしたところにぴったりと嵌まっている訳です。たとえばあの、語り手が「わたしを離さないで」を聞きながら踊るあの場面は、幾らなんでもあんまりではないでしょうか。あそこまで醜悪なポーシュロスチはちょっと見たことがありません。イシグロで行きます、と書評の担当者に宣言した後でなければ投げ出していたでしょう。

もうひとつ、歯を食いしばって最後まで頑張ったけど本当は投げ出したかった理由があります。あの出口なしの宿命に対する従順さという奴がどうにも気色悪い。何といおうか、べしゃべしゃぐにゃぐにゃしたものを手探りでいきなり掴んでしまったように気色悪い。そしてこの気色の悪さというのが、新海誠の『ほしのこえ』を見た時に感じたのと同じ気色悪さなのです。あれもまた、ここまで指摘してきたような、事前のシミュレーションの努力を徹底的に欠いた薄っぺらで異様に小さな世界とか(八光年の彼方まで軍隊送ってるのに、バス停はあれで、携帯はそれか)、出口なしに対する無気力さとかがそのまま適用できる奇怪な作品ですが、この気色悪さは一般には非常に好ましいと感じられているようです。2ちゃんねるのイシグロのスレッドには、これはジャンルだから、と書いておられた方がいたと思いますが、まさにその通り、『わたしを離さないで』はある種のジャンルのものと見做して始めて成立するものであり、普通の小説としては到底認めがたいものです。そして何より驚きなのは、そうしたジャンル(「セカイ系」ってこれかね?)に、かくも多くの人が、かくも容易に、しかも世界同時多発的に嵌まっているという状況でしょう。

いずれにせよ、一篇の小説に対する見方は様々です。私がこう言ったからといって、誰の読みが否定される訳でもないことをお忘れなく。『わたしを離さないで』が、暗い日曜日現象で持ち上げられた凡庸な失敗作なのか、それだけには止まらない傑作だったのかが判明するには、最低でも五年は待つ必要があるのではないでしょうか。

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16. 『天使』その他の問題について

サンアンドレアスでうろうろしてて遅くなりました。文句の時間です。

From:
Date: 17 janvier 2007 13:51:25 HNJ
To: monk@zag.att.ne.jp
Subject: いくつか質問させてください。

こんにちは。
先日はこちらのブログでファンサイトの方をご紹介頂きまして、大変ありがとうございました。
今日はファンとしていくつか質問させていただきたいと思います。
使っておられる歯ブラシの色は何ですか?
冗談です。


歯ブラシはブラウンの乾電池式(うぃんうぃん言う奴)なので、特に色では選んでいません。ただし、プラスチック製品に関しては、デザインにもよりますが、赤いのが一番好ましいと思っており、従って手動歯ブラシを買う時は赤であることが多いです。

という具合に、今回はちょっと分けて回答させていただきます。

1、ストーキング掲示板の方にも書いたのですが、『天使』についてです。
ファンとして恥ずかしいことに、私は天使をそれまでの作品のようには愉しむ事ができませんでした。
何度か読みましたし、ストーリーを愉しむ事は出来るのですが、なんというか無愛想?という印象が強くて、それ以前の作品を繰り返し読む時に味わったような快楽を感じる事が出来ませんでした。
大蟻食さまはここに至ってさらなる読者の篩掛けをなさったのかなと思いました。
作品は楽譜であって、それを読者が「演奏」することによって初めて芸術としての価値が生じるという見地からして、私はどうもヘボ演奏者のようですが、以前大蟻食様が『戦争の法』や『鏡の影』についてなさったような「ヘボ演奏者へのアドバイス」をしていただければ大変ありがたいです。
大蟻食様がおっしゃっておられたように、「離人症的記述」あるいは文体の問題かなとも思いますが…。

作者自身が自作について語るのは野暮であるばかりではなく、何かしら特権的なものと錯覚されがちな作者の意図なるものが、作品を死んだ、動かないものにしてしまう危険が大である、ということをご承知頂いた上で、飽くまで一読者として(それはまあ、何が何処にあるかは多少良く知ってはいますが、書き終えた上は、それ以上の立場にはおりません)ひとつの可能性を提示させていただくならこういうことになるでしょう。

『天使』『雲雀』は、言葉と言葉の向けられる対象の乖離が、それまでの作品と比較しても(忘れていただきたくないのは、『戦争の法』以外の全ての作品にこうした乖離は存在しています——日本語で語られる筈のない事柄を日本語で語るのですから、作中で「パイプ」と書かれている場合も、それはパイプではありません)、極めて大きくなっています。読者が読む言葉と記述される事象との間に乖離があると同時に、作中の感覚を持つ人物と世界の事象との間にも乖離があり、視点を彼らに置いた記述では(小説の大部分がそうだということになりますが)、この二重の乖離を経た記述を読むことになります(見る、聞こえる、目を凝らす、触れる、等、最も直接な知覚に関する記述がその典型でしょう。ただし、どの程度の乖離かは人物によって異なります)。

特に二番目の乖離に付いては、『天使』(文庫)のp.38とp.192に注意していただけると多少ご理解いただけるのではないかと思います。特殊な感覚によって世界を知覚しながら、それを整理し、再構成し、認識する枠組みとしては、そうした感覚を持たない経験から形成されてきた言語と世界観しかない、という状況をシミュレートするのはなかなかに愉快でした。効果の程には確信がなかったのですが、web上の感想で、無彩色の世界とか、寒い季節には読みたくなかった、とか言われるのを見た時には、正直、にんまりいたしました。読解に際してはその辺を意識していただけるとよろしいのではないかと思います。

2、大蟻食様の小説やエッセイでは、よく「食べる事」について言及がなされますし、ボクササイズをしたり、化粧品について語ったりされます。
ネットが発達し、人間のコミュニケーションが少しく変容し、人の精神のあり方に、昔のSFが楽天的に描いたようなある種の「進化」がされつつあると私としては感じています。(大蟻食様は、人間そんなに簡単に変わらないよとおっしゃるかもしれません)
また、少し前に視力を失った人に、電子的な装置で「視力」を取り戻させる事に成功したというニュースを見ましたが(ごく原始的な物に現段階では過ぎないようですが)人間の「サイボーグ化」というのも進んでいくのかなと思います。
そうした状況下で、逆に人間の「身体」と言う物が強く意識されてきているように感じます。
このような文脈で、大蟻食様に「身体」について一言お願いしたいです。
ちなみに私は海外通販で怪しげなサプリメントを買いあさり、ジムに足繁く通い、日に十回体脂肪率計に乗らないと気がおさまらないタイプです。

以前、どこかでたぶん読めると思いますが、小林恭二氏と人間の寿命が倍に伸びたら、という話をしたことがあります(専修大学だったかな)。小林氏はかなり劇的な変化を予測しておられましたが、私は、寿命が倍に伸びたら六十歳になった息子が職にも就かずに家でごろごろしていると百歳の母親が嘆くだけだと、至って面白くない返答をしたのですが、その考えは今でも変わっていません。三百年生きたり五百年生きたりすれば何か劇的に変るかもしれませんが、倍くらいでは大して変りはないでしょう。人間の身体的な条件についても同様でし。鉄道や自動車が当り前のものになっても、人間は、金と暇があると乗合馬車で湯治場に行っていた頃と大差がない行動を取っている訳ですから。webについても同様です。十七世紀のウクライナのラビが、ダマスカスのラビと文通で親しく意見交換していた、とか、デューラーの新作版画が地元で売り出された翌週にはヴェネツィアで海賊版が出回っており、それを知った画家は即座に現地の弁護士に連絡、販売差し止めを求めた、とか、十八世紀のやばい本の奥付を見ると何故かみんなオランダで印刷されたことになっている、と言う話とかを読むと尚更そう思う訳です。

2ちゃんねるなぞ見ていると、これは所謂カフェ文化だな、とも思います——皆さん忘れちゃってるようですが、別段カフェでは文化人(だけ)が高尚な話(だけ)をしていた訳ではなく、ごく普通の暇な人々が寄り集まっては(で、その中にたまたま、我々も名前を知っているあの人やこの人もいた訳ですが)無責任な放談を繰り返していた訳で、こっそりと持ち込まれる話題には信憑性の高いリークから全くのガセまで様々(その中に、時々、生産性の高い文化的な話もあったのは事実です)、文字通り2ちゃんねる的なネタで叩いたり煽ったりしているうちにネタ元炎上、という実例もあります。何しろ祭りは誰だって好きですし、暇な連中は元気に突撃をかましますし(新聞記者でもないのに話題の人の家の前に張り付いて、動きがあるとカフェに飛んで行って吹聴する)、全紙一枚までなら無検閲という法を逆手にとってそういうネタをパンフレットにしてばらまいたりもします(この話は来年か再来年には書こうと思っていますが)。違うのはワンクリックごとにどこかで誰かが儲けている、ということくらいでしょう(もしかするとこれが最大の変化を齎す要因かもしれません)。

現状くらいの変化では、人間性に根本的な変化は生じないのではないでしょうか。身体的な改変にしても、それによって世界観が根本から変わるくらいの改変(可聴域や可視の光線の範囲が完全にずれるとか)が一般化しない限り、平均的な身体のスペックに吸収されて終りだと思います。我々の認識は恐ろしいくらいに身体に拘束されており、それを完全に越えるには現在の変化程度ではまだまだ不足、ということだとお考え下さい。大抵のことより、たとえば一日当りの必要カロリーが半分になった場合の経済的・社会的インパクト(実際、必要なカロリーではなく食べる口が激減したために農作物の価格が下落して社会が激変した歴史的事例はあります)の方が大きいんじゃないですかね。

ちなみに、私も一頃マシンに嵌まっておりました。減量にはほとんど効きませんでしたが(半年で三キロが最大)、体脂肪率が減るのが面白くて(やり始めは一気に減った)。もっともあの面白さは、たとえば鱗が生えてきたり触手が生えてきたりするのとあまり変りがないような気もします。
 

3、コンピュータの計算能力の発達が、世のあらゆる事象を予測できる、という期待はカオス理論によって否定されたわけですが、ラプラスの魔自体が否定されたわけではないのではないかと私は考えています。(量子力学については理解できていないのであえて無視します)そうした中で人間が意識的に起こしたと信じる行動は、予めすべて決定された事なのかなぁと思うことがあります。
私の人生について多くを語るのは恥ずかしいのでよしますが、一言で言って塞翁が馬な人生を送っている人間として、今現在持っている幸福も不幸も、自分の自由意志によって得た物という実感が薄いです。
また、向精神薬が人間の心に与える影響を間近で見てきた人間なので、そういう体験もこうした人生観に強い影響を与えていると思います。
まあそれはおくとしても、脳内の活動も化学変化の集積に過ぎない以上、人間には自由意志というものは存在しないのでしょうか?
だとしたら私たちが幾ら否定しても無意識的にはしてしまう「祈り」にも意味はないのでしょうか。
戦争の法で、お内儀が伍長に「死ぬね」とただ言ったシーンが印象に残っています。

科学は人間の精神だの魂だのを解き明かすことができるか、という問いに対しては、問いそのものがナンセンスだと愚考します。脳の機能を解明することには相当なところまで成功するでしょうが、精神とか魂とかはあくまで概念であって、各々然々の性質を具えたものと規定されることで始めて存在し、土地により時代によりその定義を変え、伝達されることによって広まるものだからです。脳味噌をいじり回せば、概念がどう生み出されるのかは何かしら解明されるかもしれませんが、個別の概念には引っ掻き傷も付かないでしょう。こういう問題にはAI研究の方が成果を上げると思いますが、とは言え、私にとっては簡単なチューリング・テストさえ通れば取り敢えずは海豚の人だったり猫の人だったり機械の人だったり案山子の人だったりするので(いやまあもちろん、この機械の人はかなりあほだ、とかいうのはある訳ですが、あほか利口かで人を差別しちゃいけないよね)、あんまり関係がないといえば関係はありません。

一方、ここ十年くらい何となくそれらしいと思っているのは、大量発生大量死説(だったか?)とかいう進化論上の学説で、つまり、生物は特別な理由もなしに大量の突然変異を生み出し、そのうちの大半が特別な理由もなしに、ただ運が悪かったからというので絶滅しているという説です。適者生存もへったくれもない素敵な説でしょう? この説を応用するなら、人間がある局面である選択をして、別な選択をしないことには、全く、何の意味もないことになります。滅びる時にはどんな選択をしようと滅びる訳ですから。自由意思もまた概念であり、概念がすべてそうであるように、突き詰めれば認識の問題にすぎません。自由意思が本当に問題になるのは、選択自体に意味がなく、時としては選択さえできなかったということを喜ばしいこととして肯定できるかどうか、という問いに関してだけでしょう。「祈り」とか「信仰」とかいうものは、世界の容赦ない偶然性——「運が悪かったから」との間に何らかの関係を作ろうとする試みであり、最終的には、何の助けもなく絶滅に追いやられる瞬間にも、それを摂理として認めることに至るものです。尤も、そこまで行ったら聖人かツァディクだということになるのでしょうが。

ちなみに、「運が悪かったから」という言葉は、アメリカの研究者がロマ(所謂ジプシー)に、ナチの占領下におけるヨーロッパ・ロマ虐殺は何故行なわれたと考えるか、と訊ねて得た返答です。一千年間、何の精神的な支えもなく難民であり続けると人間はどうなってしまうか、という気の滅入る話なのですが(読んだ時にはひどいショックを受けました)、最近では実のところ、難民であることは人間にとっての本質であって、だから何が起ってもそれ以上の説明はできないししてはならない、という気がしています。こんなことが起ったのはこれが理由だ、だからこういう選択をしておけば避けられたのだ、という説明は心慰める嘘に過ぎず、他の選択はできなかったか、しても無駄だった——できた筈だと考えることがそもそも間違いだろう、と。その上で、できることをしていくことができるかどうか、全くの無駄になる努力を営々と積み重ねて行くことができるか、全てが徒労に終っても否定することなくいられるかどうか、が問われることになるのだと思います。

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2007.01.16

15. ついでにもひとつ

From: Date: 15 janvier 2007 20:54:15 HNJ To: monk@zag.att.ne.jp

「わたしを離さないで」は、大森望と豊崎由美のメッタ斬りコンビを始め、池上冬樹や茂木健一郎(web上に書評があります)、角田光代、小野正嗣が絶賛しております。紀伊国屋の書店員の多くが支持しキノベスの1位に輝いてもおります。彼らを否定するおつもりですか。文学の頂点メッタ斬りコンビから「読めていない」 と言われますね、これでは。

いやそれでひとつ聞きたいんですが、あなたはあれを読んだんですか。どう思いましたか。

それも言わずに、誰が褒めてたの彼が褒めてたのと挙げて行き、だから傑作の筈だと顔を赤らめもせずに言える人間が、「悪口言ってるっ! ひどいっ!」とか金切り声を上げて擁護に乗り出す本なぞ、私はこれっぽっちも尊重する必要は感じません。一冊の本に対する目利きの意見が必ず一致すると夢想する無邪気な方の支持する本ともなれば尚更です。こういう文句を引っ張り出しただけでも、ワーストに挙げる値打ちはあったことになります。即ち、一体どういう頭の構造をした読者が喜んで読むのかの例としてです。

『わたしを離さないで』が職業的な読み手の支持を集め、かつ私がワーストと名指すのは至極簡単、エモい代物をどう扱うか、の問題に過ぎません(紀伊国屋さんの方々も勿論同様です)。彼らはエモ文学のブームがまだ続くだろうと見るから褒めているのでしょうし(たぶんエモい代物に涙を流すこと自体にも何かしらの意義があると考えているのでしょう)、そういう評価自体が悪いと言う気は、私にはありません。エモいと言う点では強烈にエモい代物であり、それをプラスに評価するなら、これ以上の代物は確かに去年はなかったということになるでしょう。ただし、エモいことが即ち感動かといえば、全然違う、と私としては言わざるを得ない訳です。エモーショナルな刺激だけでは、感動としては全く不足です。エモーショナルな刺激を用いて造り上げられた形が与えるものが感動なので、そこのところを勘違いしている読み手が多すぎないか、という危惧からあえてワーストとして挙げた次第(まあ、イシグロはその辺を読み切ってああいう杜撰な仕事をした訳ですが——それにしても彼の文章は詰んないねえ、確かに)。エモい代物を求める方、なおかつ、世界が異様なくらいちまちまと狭苦しく、そのちまちました迷路の中を、作者によって鼠並みの知能しか与えられなかった登場人物が右往左往して可哀想な目に遭う話でも平気な方にはもちろん大いにお勧めできます。ただし、そういうのを読んでべーべー泣くことを、感動! とか言われると、実際に書く側としては強烈な脱力感に襲われる訳ですよ——何だお前ら結局ポルノが読みたいだけか?

From:
Date: 18 janvier 2007 17:15:20 HNJ
To: monk@zag.att.ne.jp

すみません、理解力がないので、質問させてください。
エンターテイメントは売れてなんぼではないのですか?だから売れない文学はくだらない、価値がないと言われてしまうのではないのですか?
カズオ・イシグロ、素晴らしいではないですか!大衆から支持され、評論家からも熱烈なプッシュ。もちろん売れたエンタメの中にもくだらないものはあるでしょうが、それをいうなら売れていないエンタメはもっとひどいわけで、わたしを離さないでより酷いものは山ほどあると思われます。
また、失礼ながら佐藤氏の作品は現在の他作家の人気作と比べると、とても売れているとはいえません。佐藤氏はご自身で「文学ではない」とおっしゃっておりました。つまり、売れないエンターテインメント、カズオ・イシグロより酷いのではないですか? いったい誰に向けて書かれておるのでしょうか。とても他の作家 にくだらないなどと言えない身分だと思います。
では。

おいおい、まさかこれ釣りじゃないだろうね?

釣りじゃないと仮定して、あなたは一体何が言いたいのかな。去年だか一昨年だかなら『世界の中心で愛を叫ぶ』にしとど泣き濡れてたようなど素人(いやあ、あなたの論法に従うなら、あれは立派な小説の筈ですよ——何しろ作者は純文学の新人賞をとった文学の作家で、しかも大衆に支持されたんだから)、と言われたくなければ、せめて『わたしを離さないで』のどこがどう素晴らしいのかをきちんと論じるべきじゃないのかね。それともあの小説を批判されて怒髪突天になるのは、読んでもいない小説をエンタメと決め付け、部数のデータもなしに売れてないと決め付け、売れてないエンタメは駄目と決め付け、駄目な小説を書く人間は売れてる小説=立派な小説(この理屈でいいのかどうか、よく考えてご覧)の批判をできる《身分》じゃない、と平気で主張できる人だけなのかな? 

小説は、エラい評論家がどう褒めたか貶したかに拘らず自分で読んで判断するもの、どんな《身分》の誰がどう褒めても貶してもいいものだという根本のところがあなたには理解できていないみたいだけど、それでいいのかどうか、ちょっと考えて、私が説得できるかどうか試してご覧よ。どこが良かったの? どこが素晴らしかったの? どこがどう傑作なの? 結局のところこういう種類の人間を大動員するだけのビョーキな小説、と私にせせら笑われたくなければ、次はきちんとハンドル決めて、真面目に書いていらっしゃい。真面目に書いてくれば、私も馬鹿にはしないから。

From: "thebluenowhere1978"
Date: 20 janvier 2007 08:22:05 HNJ
To:
Subject: 15の人は↓の人にそっくりですね。

>ranshi 『薔薇の名前は読んでないんだけど
>信頼する人はみんな小説としては駄目だっていう>のでそれを信用しました』

まあそうなんですけど、別人です。ちなみに最初の二通はアドレスだけ変えてあるけど発信元は同一でした。多少、慎重なようです。で、真面目に書いていらっしゃいと言ったら、またメールをくれました。

From: locklockkonnitiwa2000
Date: 22 janvier 2007 00:50:46 HNJ
To: monk@zag.att.ne.jp

もっとも中身は2ちゃんねるのイシグロ・スレッドのコピーペースト。コピペ元の方からほぼ同内容のきちんとしたメールをいただいているので、こっちの本文はカットします。

君ねえ、ちょっと真面目に人生について考えた方がいいと思うよ。


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2007.01.15

14. 『鋼の錬金術師』と『999』の関係が、今、明らかになる! およびファンサイト開設のお知らせ

From:
Date: 8 janvier 2007 20:32:37 HNJ
To: monk@zag.att.ne.jp
Subject: 「銀河鉄道 999 」と「鋼の錬金術師」の関連性


以前「鋼の錬金術師」と「銀河鉄道」の類似、元ネタについてメールしたものです。詳細をということですので、詳細と呼べるほどではないのですが、思いつくままに列挙してみます。
 
その前に一つ。わたしは「鋼の錬金術師」の漫画は全巻持っていて現在も新刊待ちうけ中。いっぽうアニメは前半部分(軍の葬儀のシーンまで)を、気が乗るときに見ていた程度です。
「銀河鉄道999」については、子供のときアニメを何度も見ていました。あと映画版も何度も見ました。でもDVDなどは持っていないので、最近見直してはいません。元ネタかな、と思われる点もですから、ざっくりとした、感覚的な既視観です。
 
1.鉄郎は機械の体を得るために旅している。エルリック兄弟は自分の肉体を取り戻すために旅している。目指すベクトルは正反対だが、これってある意味おなじことでは。
 
2.銀河鉄道の終着駅「惑星メーテル」とは、鉄郎が理想として追い求める機械の体をただでくれる国。その現状は、人間を、機械人間=惑星を構成する部品、ねじやら、歯車にする恐怖の忌むべき惑星。つまり惑星メーテルは、部品になった人間により構成されている国です。
 
鋼の錬金術師で、エルリック兄弟が探し求めている「賢者の石」は、人間によってできている。少なくとも現在ある不完全版「賢者の石」は、虐殺によって殺された人間によって構成されている恐怖の忌むべき石。
 
どっちも人間で出来ていて、物語内で絶対的にちかい力を持つ、という点。
 
3.メーテルは、実は魔女のようなおっかない女で、惑星の部品となりうる人間、人柱を勧誘しては、惑星メーテルに連れ帰っていた。(その真実はけれども、恐怖の惑星「惑星メーテル」を崩壊するための革命児「同志」を連れ帰っていた。いざというとき自らの体が崩壊することも辞さない強い意志を持つものを、メ ーテルが見定めていたわけですが。)
 
エルリック兄弟も、「人柱にするために生かされていることを忘れるな」とか言われてはよくぎりぎりのところで助かってますよね。これっておそらく完璧な賢者の石を作るための構成要素とされるためで。鉄郎が、メーテルに助けられながら旅を続けるのと同じでは…?
 
4.銀河鉄道の車掌さんと、鎧姿のアルと、見た目が似ている。車掌さんは透明人間で、アルは魂を練成した「空洞」なわけですが。見た目的には、外側の大きさにひきかえ中身の正体が見当たらず、目だけ光っているところ、アルの見た目は車掌さんをもろ彷彿とさせませんか。
 
ほかにも、もしや…と思う点。(これはほとんどこじつけ)
・銀河鉄道の機械人間は牛乳を飲むと体が錆びて終わりです。
鋼のエドは牛乳が嫌いです。
 
・ 銀河鉄道では、未来の鉄郎や未来の少し古ぼけた銀河鉄道999と、今の鉄郎と今の銀河鉄道999がすれ違う、接点の駅のエピソードがあった気がします(うるおぼえ)。鋼の錬金術師では、真理の扉の向こう側にもう一つ世界があって、アルに会える。この二つの次元の接点という観念など。……これはそれこそSFによくある設定ですので限定できないと思いますが。
 
どう思いますか?
 
影響と元ネタと類似いう言葉にどれほどの差異があるのか、そのへんのところはあまり意識せずに書いてみました。

返信、どうもありがとうございました。『鋼』の方はこちらも最新刊追っ掛け中、敵味方の慣れ合い案配が素敵なことになって参りました。アニメの方は十巻までの内容でよくあそこまで盛り上げたなという感じ。正直、見終わった後は、これで先が続けられるかと案じたのですが、見事に舵を切り替えて繋いでくれました。荒川弘って結構偉い。でもって1についてですが、怪しい中国人の登場により、機械と肉体の問題が相互補完的なものとして浮かび上がって来ております。ここからどう料理してくれるとしても、あと十巻は掛りそう。

でもって『銀河鉄道』の方に関しては、お見逸れしました、と言うしかありません。こちらは見た筈なのに詳細はまるで覚えておりませんでした。ある種の影響関係は確かに指摘できるかもしれません。御教授どうもありがとうございました。
 

From:
Date: 13 janvier 2007 15:37:37 HNJ
To: monk@zag.att.ne.jp
Subject: 大蟻食様ファンサイトを作らせて頂きました。

初めまして。
このたび、大蟻食様のファンサイトを作らせて頂きました。
まだリンク集とスレッドフロート式掲示板だけですが、日常生活に支障がでない程度にこれからも更新を続けて行きたいと思っております。
掲示板の方は、ファンの交流の場となってくれれば嬉しいなと思っております。
 
文句ではなく宣伝になってしまいまして、失礼いたしました。
 
大蟻喰さまには、これからますますのご活躍をお祈りしております。
 
佐藤亜紀/大蟻喰様ストーキングメモ
http://ooarikuifc.web.fc2.com/
 
puripurizaemon
 
p.s 先日更新されたwikipediaの情報量はすごいですね。
単行本未収録の作品があれだけあるとは知りませんでした。

リンク先、拝見いたしました。今後ともよろしく。
ご質問等ありましたらお気軽にメール下さい。

ところでwikiにリストアップされた短編に関してですが、1998年の『黄色いペンキの神』以前のものはあまりにもひどいので、できれば読まないで下さい。『フリードリヒ・S』以降のものは短編集に纏める機会が近々あると思います。

あと、例の鰯の頭を崇める人からまたも病気メールが来ていたので放り込んであります。何か一昨日のベストに鰯の頭を挙げなかったのが気に障った様子。でもね、鰯の頭は、信者じゃない人には鰯の頭に過ぎないんだよ。悪いけどワーストにも挙げてあげらんない。ごめんね。

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2007.01.04

13. 再びあの件。ただしあの件にあらず。

From:
Date: 2 janvier 2007 03:07:29 HNJ
To: monk@zag.att.ne.jp
Subject: 再びあの件なのですが

拝啓 大蟻食様
すでに話題になった事柄ですがもう1度取り上げることをお許しください。ご自身の作品の外国語への翻訳、または外国語での作品発表の件です。
 前回質問のあったときは、実際的なレベルからさらりとかわして答えているような印象を受けたのですが、当方としては勝手に、もっとその気になれば良いのにと思ったり、実はけっこう悩んでるんじゃないかなと邪推したりしているわけです。
 つまり事は、大蟻食氏の何と言うか、我が国読書界におけるポジションの問題に関わっているように思います。とくに「バルタザールの遍歴」をはじめとするあなたの「西洋史物」は、その作品世界の緻密さの点で他の日本人作家が書いた過去のヨーロッパを舞台にした小説とはレベルが違います(ここでこれ以上、誰彼をあげつらうのはやめときましょう)。でもそのポジションは、ちょうど知る人ぞ知る通好みのフランス料理店みたいなもので、評価は高くともそう大勢の多くの客はやって来ないだろう。勿論、大向こうを狙わなきゃだめみたいなことを言うつもりはないのです。でも今度は「メッテルニヒ」伝でしょ。一次史料を読んで注がいっぱいつくライフワークでしょ。これを期に広く読者を開拓したいって欲を出したとしてもごく健全じゃないでしょうか。
 ご自身、語学力はかなりの水準でしょうから、余計慎重になるのかもしれないですね。でも、あなたの作中人物の貴族の表現を借りれば「バイオリンを諦めて」でも取り組む価値があるような気がするのですが。
 「バルタザールの遍歴」を読んでいる最中、私は何度か本をひっくり返して、著者がごく普通の名前の日本人だと言うことを確認して驚きました。ヨーロッパの読者があなたの本をひっくり返して、「この人、どこの人なんだ」って言わせたら愉快じゃないですか。

甚太郎

悩んだのは事実ですが、現在では悟りの境地にあります。十年くらい前、フランスの編集者からは「最低限芥川賞、ないしは大ベストセラーが翻訳の最低条件」と言われ、それにしちゃ高村薫とか訳がないじゃないの(当時。今は知らん)と訊いたら「アメリカの猿真似小説はいらない」と答えられた時には結構うんざりしたものです。村上春樹が一部に熱狂的な読者を持ちながらも日本文学編集者と翻訳家から毛嫌いされていた頃でして、これもまた理由は「アメリカの猿真似小説」だったと記憶しております。何と言おうか、現代社会に生きているフツーの日本人がフツーに抱えている諸問題の表明というのは、フランス人の目から見ると「アメリカの猿真似」であるらしい。いや、あの、じゃあ我々はどんな生活を送ればいいんですかね? 株もインターネット通販もやらず、木と紙で出来た家に住んで、卵の殻のように薄い茶碗から二本の棒を使ってコメを摘んで食えばご満足? ちなみに、そこの会社はフツーに現代の生活を描くフツーの作家の本の表紙に水墨画(いや詳しくはないけど中国のじゃないか、これ)の表紙を付けており、その編集者は私にそれをくれる時「わざとじゃないの、変でしょ、変なのは私も判ってるのよ、でも日本の小説はこうしないと売れないの」と一生懸命念を押しておりました。どうも自分がバカみたいに見えると言う自覚はあったみたい。やれやれ。

その後、辻某の「白仏」がフェミナ賞を取り、アメリ・ノートンの「震えおののいて」がアカデミーの賞を取ったところで、フランスで訳を出すことは全面的に諦めました。何と言おうか、彼らは、バカみたいに見えることは百も承知でも、その手のエキゾチックなイメージを諦められないらしいのですよ。謎と神秘と恐怖に満ちた「微笑みの国」。綺麗な細工物を作る愉快な小人の住む地下の国。まあ、昨今のハルキブームとサブカルブームで事情は幾らか変わりつつあることを希望しますが、あんまり私には関係ないでしょう。たぶんむこうでライトノベルのレーベルが出来て大ヒットを飛ばす日の方が近いよ。

あと、日本文学を積極的に出すマイナーレーベルというのもある訳ですが、こういうところのピックアップ力にもあまり期待はできません。お世辞にも日本語力が高いとは言えないので(ある翻訳者は正直に「粗筋しかわからん」「百ページを越えると読み切れない」と言っておりました。そりゃまあ、粗筋しかわからない状態で二百ページ超はきつかろう)、怒濤のごとき日本の出版物を乱読しては何か見付けて、これいけます、とプッシュしてくれる可能性はあまりにも低い。日本からの提案でそのまま出している、という可能性が大でしょう。つまりは、日本の文壇の力関係の横滑りにオリエンタリズムのフィルターを掛けて出している、というのが現実です。佐藤亜紀が引っ掛かるような状況じゃないね。

以上、フランスにおける状況でございました。その他の国とは交渉もしておりませんが、まあ、大差はないんじゃないかな。

という訳でまず攻略すべきは日本国内である訳ですが、これも残念ながら、私にどうにかできる問題ではありません。本がヒットするか否かは、特に最近では、出版社の販売戦略次第、売りのある作家の作品を大々的にプロモートすれば大ヒットが出来上がるという図式が定着しつつあるのは皆様も御存知の通り(猛烈にシニカルなことを言うなら、昨今では中が全部白紙でも大ベストセラーにすることは可能でしょう。中身なんか書く必要はありません)。作品自体以外に一切売りのない佐藤の仕事がそういう形でプロモートされる可能性は万が一にもありません。売れなくなるからと言う理由で註も索引も省かれる現状で、『メッテルニヒ氏の仕事』がそういう販売戦略に乗って売り出される可能性もまた皆無ですからご安心を。ちなみに完成は2008年上半期、出版は、そうねえ、ウィーン会議二百周年の2014年までには何とかしたいね。

まあ、前回書いたような底意地の悪い悪戯(以上のような状況をお読みになった後では、あれがいかに意地悪かはお判りいただけたでしょう——いやあ、ばれた後でケツ捲ってやったら愉快だろうな)も含め、万事粛々と進めるのが現在の方針でございます。

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2006.12.30

12. 嫌がらせの技法

From: 田中 上一浪
Date: 29 décembre 2006 22:19:11 HNJ
To: monk@zag.att.ne.jp
Subject: 批判する時は相手の名前を出すもの?

名前を出さずに批判するというやり方を米本は是認していたようだが、こういうのも卑怯である
小谷野敦

名前を出さない事にこだわっているのも理解できない。相手を「エラい書き手」と表現し、「コネ」がうんぬんといっているところをみると、自分は弱者だから弾圧を避けるために匿名の皮肉をとばすしかないとでもいいたいのだろうか。
巽昌章

佐藤亜紀、笙野頼子、殊能将之らはよく相手の名前を出さずに批判することがありますが、自分で卑怯だとは思いませんか。

えー、申し訳ありません。どこからどこまでが何の引用なのかいまひとつはっきりしないのですが、「名前を」から「卑怯である」まではjun-jun1965ことあっちゃんまたは猫猫先生(はてなダイアリーのキーワードによるのだが、おおこれは吃驚、大学の先生だったのか、別冊宝島あたりで仕事をしているライターの人だと思ってたよ)、「自分は」から「のだろうか」までは巽昌章というミステリ評論家の人の、それぞれ引用ということでよろしいですね。違ったらご連絡下さい。また引用の出典を教えて下さると有り難い。二行や三行じゃ何をどう言っているのか推測するしかないですからね。

殊能先生がどこでどういう批判を名前を挙げずに行ったのかは知りませんが、笙野氏の論争は読んでおりますし、自分の場合はもっと具体的に申し上げることができます。名前を挙げないのは、第一には、それが誰なのかはどうでもよく、実のところ誰であっても同じだと考えているからであり、もっと言うなら

症例としてのみ興味の対象となっている

からです。症例について論じるのに、特別な違いもないのに誰の癌だの彼の癌だの言っても仕方ないでしょ? おまけに特定の名前を挙げると、そのものずばりの患者の癖にああそりゃおれの癌じゃないと安心する奴が出てくるからね。少なくとも私がある症例を論う時には、その人間固有のあり方ではなく、社会のある部分、ある階層、ある種族に共通の病理として論じているので、できることならより広く、ひょっとしてこれおれのことかと怒っていただきたい訳です。病気ってのは、驚くほど無個性だからね。そこから更に派生して、あんたの個人名なんか挙げる必要はないよだってゴマンといる症例のひとつじゃん、とせせら笑うやり方もありますが。

これじゃ喧嘩を売り難くて困る、とおっしゃるなら対処法を教えて差し上げましょう。まず第一には、症例には症例、です。つまり「****とか言っている阿呆が時々いるが」とやって反論する訳で、たぶん、これが一番建設的な方法論です。ブログならトラバを打っておけば相手には通じますし、活字なら付箋を付けて送り付ければよろしい。それじゃ嫌だ、どうしても向かい合ってタイマン張りたいと言うなら「****ってのはおれに対する批判か」と名乗りを挙げて出て行けばいい訳です。

更に、軽蔑表明の技法の一つとしても、名前も挙げない、というやり方は非常に古典的であることもお忘れなく。分かる人々の間でくすくす笑いを広げて嫌な思いをさせようという訳です。非個人的な症例として扱われることも、「エラい先生」とやられてくすくす笑われることも、やられた人間には非常に頭に来るものでしょうし、頭に来させるためにやっている訳ですよ。揚句に、卑怯っ、とかきいきい声を挙げるんじゃ、思うつぼだよねえ。無視するか(まあつまり端的に言って、批判はされていない訳ですよ——名前が挙がっていないなら、おれのこととは全然思わなかった、で鉄面皮を通せばよろしい)、他人事みたいな顔をして、氏の診断は誤っている、とやるか、それはおれのことか馬鹿野郎と出て行くか。いずれにせよお好きなやり方をお選び下さい。

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2006.12.23

11. 平野氏に謝る?

From:
Date: 22 décembre 2006 17:43:25 HNJ
To: monk@zag.att.ne.jp
Subject: 真実はどうなのですか。


ずばり、平野啓一郎のファンです。

彼の憤りをどのようにお感じですか。

私は作家ではありませんが、少なくとも謝るべきと思いますよ。

今年の締めくくりにふさわしい文句、ありがとうございます。まずはかい摘んだ返答をさせていただきましょう。

1. 彼の憤りをどのようにお感じですか。

何も感じません。本気で憤っているとも思いません。誰かに一言弁明しておいた方がいいと言われたからやった、というだけでしょう。内容的にも、「読んだことがない」まで含めて、六年前に新潮社が寄越した内容証明郵便にあったそのままですから、今更何の感慨もありません。

2. 謝るべきだと思いますよ。

迷惑掛けてすいません、と一言謝ってしかるべきは平野氏の方です。悪気はなかったんです、とか、ぼくの本意じゃなかったんです、とか、運命の罪です(はい、笑って!)、とか付け加えていただいても結構ですよ。

で、さて、この後を読んでご理解いただけるかどうかは非常に心許ないのですが、取り敢えずひとつ質問をさせて下さい——『生活と意見』第十三回は読んでいただけましたか。平野氏の弁明には私の主張に対するリンクが貼ってなかったようで、その為、平野氏の見解のみを読んで鵜呑みにする方が続出しております。平野氏の主張では、私が彼の『日蝕』を盗作呼ばわりしたように言われていますが、私は『ぱくり』と言っただけです。辞書的に厳格な用法や特殊西日本的語法ではどうか知りませんが、googleで検索して文例を探していただければお判りの通り、現在一般に用いられる『ぱくり』は特に罪に問うほどのものではない、盗みとしても全く罪のない、何事もなければなあなあで済む程度のものに過ぎないことがほとんどです(もちろん執念深く怒る奴は怒りますが、新潮社が妙なことを始めなければ、私もなあなあで済ませるつもりでした)。盗みと言いたければ、私はちゃんと盗みと言ったでしょうし、絶対に許せないということなら裁判所にだって持ち込んだでしょう。例の弁明にしても、私がもう少し小煩ければ、盗作者呼ばわりして濡れ衣を着せたという濡れ衣を着せたというので謝罪を求めているところです。きちんとお読みいただければお判りの通り、私が批判の対象にしているのは新潮社の不透明で不誠実な対応であって(これについては平野氏も同意してくれています)、平野氏については、残念ながら言及せざるを得ない、と明言した筈です。

しかしたぶんあなたにしても、ここを読みながらわくわくしておられる皆様にしても、訊きたいのはそんなことではないでしょう。平野氏が、読んだこともないし、今後とも読むつもりはないから盗作ではあり得ないと主張したことを私がどう考えたか、ではありませんか。

今後とも読まないかどうかは兎も角として、「読んでいない」には二通りの可能性があります。

1. 本当に読んでいない。
2. 実は読んだ。

「読んでいない」という主張だけでは、どちらとも確認することは困難です。平野氏に好意的な人間は1だと取るでしょうし、悪意があるとまでは行かなくても好意的ではない人間は2かもしれないと考えるでしょう。私は彼に対して特に好意も悪意も持っていませんから、両方の可能性を保留しておくとしましょう。その上で、次のような可能性を更に考える訳です。

A. 新潮社は何もしていない。
B. 新潮社は何らかの手を打った。

これもまた、誰が何と主張しようと確認のできない問題です。つまり、新潮社が実際にこの件をどう考えどう処理したかは誰にも分からない。つまり1が真だったとしても、新潮社は何かやったかもしれないし、何もしなかったかもしれない。組み合わせれば次のようになります。

1-A  平野氏は読んでおらず、当然ぱくってもおらず、新潮社はその主張を信じたので何の手も打つ必要は感じなかった。
1-B 平野氏は読んでいないのだが、新潮社はその主張を信じず、結果として『生活と意見』第十三回にあるような事態が起った。
2-A 平野氏は実は読んでぱくったが、新潮社は平野氏の弁明を信じ、何の手も打つ必要は感じなかった。
2-B 平野氏は実は読んでぱくり、新潮社はそれに気付いて『生活と意見』第十三回にあるような手段で糊塗しようとした。

1-Aを信じるためには、平野氏および新潮社の全き善意を信用する必要があります。ただし、どちらも確認は不可能です。1-Bも大いにありそうなことではありますが、そう信じる為には、平野氏の善意を信じる必要があります。2-Aも十分に起り得ることですが、そう信じるためには新潮社の善意を無条件に信じなければなりません。2-Bは最悪のケースですが、残念ながらこういうことが起らなかったと信じるだけの証拠を、新潮社も平野氏も提示していません。

もっと簡単に纏めましょうか? 平野氏が白であるか黒であるかは、平野氏の弁明後も定かではなく、そもそも、何が起ったか、には全く関係がないのです。平野氏が完全な白でも、新潮社の誰かが2の可能性を懸念するだけで、Bは簡単に引き起されてしまう。題材の重複を懸念するだけで、同様の事態は起ってしまう。更に1にはもう一つの不幸な可能性があります——誰かが心配になるような類似が、全く偶然に、あったかもしれない。とすれば、平野氏が全く知らないところで何かが行なわれなかったとは断言できない訳です。実際、平野氏デビュー時の一連の騒動を考えていただければ、どこかで誰かが神経過敏になっていたと考えるのは、それほど不自然とは思いません。

平野氏が批判すべきは新潮社の過激なプロモーション戦略であって、巻き添えを食った「売れない作家」ではありません。ああいう売り込みを掛けようなどと誰も考えなければ、平野氏が実際にぱくっていてもいなくても、『鏡の影』と『日蝕』は普通に共存できた筈ですから(実際、そうなるものだと私は思っていたのですが)。迷惑掛けてすいませんと一言詫びて欲しいくらい、というのはそういう意味です——実際にぱくったのだとしても、全く偶然であったのだとしてもね。

たぶんこれだけではご満足いただけないでしょうね。ギャラリーというのはひどく貪欲なものですから。それはもう皆様、証明がないのは言い掛かりだからだろう、とか何とか言って煽るあおる。確かに、私の手元には皆様垂涎の証明とやらが、『生活と意見』第十三回をupした段階から置いてあります。ただし、それを公表するのは、言い掛かりだと言い掛かりを付けられて非難轟々になり、作家生命が危うくなってからにしようと決めています。だって、さ。

まじに証明されちゃったら平野氏が困るでしょ?

私は別に最初から、ああいうやる気満々(だった、と言うべきですかね)の作家を葬り去りたかった訳じゃないんですよ。どうもこれは抗議の声を上げなければこのまま抹殺だなと思って公にしただけで。むしろ彼には、私が大迷惑を被った見返りとなるべき、立派な作品を書いてもらわなければ、こっちは死んでも死に切れない。作家一人踏み付けにしてデビューを飾ったなら、それだけの価値を証明してもらわないとね。また現在平野氏が演じている、今の文学とは何なのかを知らず、理解しようという気もない大衆の前で半世紀前の文豪のポーズを演じて彼らを繋ぎ止めておく仕事というのもなかなかに悲劇的で崇高なものだとは思います(ああいう時代錯誤な《文化人》がどうしても必要なのだとは、文学に限らず、あちこちで聞かれるところでもありますし)。もちろん、彼には作家として長生きして貰わなければなりません。ところで大衆とは、即ち、大衆です。私がどんなにぱくり自体はOKと言っても、うるさがたがオリジナリティそれは虚妄と口を揃えても、具体的な類似が指摘されたが最後、ショーは終り(或いは私の方が今度こそ抹殺されて終りかな?)。その段階でどんな実質を具えていたとしても誰も気に掛けない。私は平野氏にとどめを刺す気はありません。もちろん、私以外の誰か評論家が指摘するかも、などというご心配も全く無用です。批評の機能不全がこのショーを可能にしている訳ですし(ということを悟るのに六年掛りました、ほんと)、作品を「感じ」ではなくきちんと分析して、似てる、似てない、と言うだけのスキルのある評論家は実際皆無です。いたとしても、仕事くれるかもしれないところを怒らせる度胸は誰にもないみたいだしね。かくてショーは続く訳です。誰にとっても結構なことでしょう? 

ともあれ、ブログ版の文句の最初にも書いた通り、私にとっては全て過去のことです。こっちはこっちで何とか生き残ってやっておりますし、平野氏も鱗一枚剥がれた様子もないのは何よりでした。あんたらで勝手に判断したら、という姿勢は今のところ変える気はありません。もちろん下手糞な判断は喜んで嘲笑させていただきます。

それでは。

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