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10/08/2009

何かもううんざりしてきた。最近じゃ、本を出す時には帯に「馬鹿は読むな、お互い時間の無駄だ」と大書してくれ、と編集者に頼みそうになる。この前は書店に頼まれたポップに危うくそう書きかけた。何しろ評論家の果てまでが、まともに小説を読解して解釈して論じるだけの蓄積もスキルもなしに差別意識剥き出しの豚野郎であることを露出して恥じないご時世である。ブレヒトの「ガリレオの生涯」がナチ体制下で書かれた無知蒙昧なバチカンによる科学の弾圧を扱った本であるとか(バチカンの恐ろしさってのは、今も昔も、その真逆にあり、であればこそ恐ろしい、ということをブレヒトははっきり書いてるよ。でなけりゃ浅いつまんない芝居になってるよね)、「薔薇の名前」が流通の困難を以て不道徳を指し示す話であるとか(映画しか見てなくたってそうは思わないと思うんだが——ロッジの「小さな世界」を読んでから再読するといいよ)言う事が何ら恥ではない世の中である。だからここでこうお断りするしかない訳だ、いや、マジで——。

馬鹿は読むな。お互い時間の無駄だ。

例えば萌えに関してだ——まだ二十歳前でご多分に漏れずホモ萌えだった頃(その後、世の中もっと幾らでも面白いことがあるのに気が付いて熱が冷めて来た時分に、ゲイの人にむかって801の人が、今日で言うなら陵辱ゲーム愛好家がぶつのにそっくりの擁護論をぶつ対談記事を目にし、あまりの厚顔さに赤面して完全に離れた——ゲイの人が怒るのは道理だし、たかがエロを彼らを蹂躙してまで擁護する理由はないと思ったからだ。どうしてもと言うなら彼らの目に入らないところでやるしかなかろう、まともな人間なら)、「キャピテン・フラカス」や「悪霊」に友と共に萌えたことを思い起こせば(「白痴」に萌えてた奴もいたな。「罪と罰」に至っちゃわざわざ萌える甲斐もないそのものずばりだった)、何しろゴーティエもドストエフスキーもサブカル以前の人だ、こう断言することが出来る。

「萌え」は作品ではなく、萌える奴の脳内にある。

つまりはどんなものにだって萌える事は可能だ。ホメロスにだって萌えられるし、バルザックで萌えるのはもっと簡単だ(この間読んだ新書の心理学の先生は、コロンバイン高校の乱射犯に801を見出して勝手に萌えていた)。セルジオ・レオーネの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の粗筋だけ読んだら、今日日の日本人の大半は腐女子向けだと判断するだろう——で、現物を見たら? まあ彼女らのお口には合わんだろうな。脳内ビジュアルとは違いすぎて。デ・ニーロとジェイムズ・ウッズじゃさ。「アンダーグラウンド」だって、現物のビジュアルを見ない限りは、どこの萌え監督だよ、とか言い出しかねない。

残念なことに、今や作品はそういう輩の手に落ちる——ビジュアル・リソースが歯が抜けるくらい甘ったるいアニメ絵に限られている連中。何を読んでも、そのフリルはどこにどんな風に固定されてるんですか(リボンだけでそれだけの布地の重量を支えるのは無理だ——合繊化繊以前の話だろ、素材、というのが諸君らに何か意味を持つとしてさ)、そのラインはどうやって出してるんですか、裁断図は一体どうなってるんですか、な絵しか思い浮かばない連中(解剖学的に宇宙人、ということは言わずもがなだ)、そもそもそういう絵でイメージされた筈だと思い込む連中。で、自分の妄想と作品を混同し、萌え小説っ、と叫ぶ訳だ。

妄想と作品の切り分けくらいちゃんとしろよ、な。そもそも小説を読んで萌えると言うこと自体、二十歳前に卒業しておくべきこと、腰を据えて小説を読もうと言うなら、卒業、としておくべきことだ。それじゃほとんどの小説は読めない。読んでも、脳内妄想と戯れただけ、で終りだ。作品と向かい合う、とは、他者と向かい合うことであり(勘違いしちゃいかんが、この場合の「他者」とは「作者」ではなく、作品自体だ)、その異物としての感触を確認しながら、どこまで理解できるかを試すことだ。おそらく、最終的には理解できない。その試みと失敗の間に束の間存在する微妙な摩擦にこそ、芸術の齎す快がある。

p.s. 陵辱ゲームおたくの嫌がらせと看做して上記のように書いた訳だが、もし、誤解です、というなら、以下のようにお勧めしておこう——スクリューボール・コメディを見るといいよ。おそらくはあなた的にはぴったりの「萌えシチュ」が山のようにある。六十年代末から七十年代初頭の少女漫画は、その辺りからかなり多くのインスピレーションを得ているし、それは八十年代半ば、少女漫画における表現の大虐殺とあまりにも商業主義な規格化が起るまで続き、「形」として継承されて今日に至っている。つまり「萌え」は三十年四十年代のハリウッド映画の影響によるところ大だ。

ジャンクで終わりたくなければ勉強したまえ。表現に貴賎はない、は社交辞令だ。現実には、何よりまず、表現には優劣があり、優劣に基づく貴賎は存在する。そしてその貴賎を自信を持って判断することができなければ、鑑賞者としては全くの役立たずだ。創作者としては、言うまでもなかろう。

ついでに言うと、鑑賞者にも勿論、優劣に基く貴賎はある。

p.p.s. ちなみに当該のページは、現在では、エロゲのシナリオでもやってればいい、陵辱ゲーなんかぴったり、という箇所を削除していい子ぶりっこしているようである。嫌がらせのために作ったブログじゃありません、というなら、削除のついでに一言断って詫びてほしいものだ。でないと最初からこうやって削除して、なんでいじめるんですかぁ、で同情を集めるつもりだったと思われても仕方なかろう。まあ現在では、大塚英志を読んで以来のサブカルに対する不信感は積極的な嫌悪に変わっているので、こういう奴らはそんなもんさ、とも考えてはいるが。


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Notifié: 12/08/2009 02:59

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