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06/07/2009

sk-44@地を這う難破船様

表現としての可能性と規制の問題は当然、別です。故に別項を立てました。どれほど芸術的に高い達成であっても、現実の問題として、規制は為されることがあるのはご存知の通りです。歴史的に為されてきた規制を、傑作も規制されたという事実から愚昧と看做すのは通例ですが、規制の対象を芸術性において区別しない、という立場を取る場合には矛盾を来します。性表現というカテゴリーに括れば、大谷崎と暴行AVに区別はありません。従って、これは猥褻ではなく芸術だ、という主張は、表現自体に即して言うならこれ以上正しいものはないとしても、現実においては無力です——裁判官のスノビズムに媚びるのが作戦として有効という可能性は否めないとしても。猥褻表現として出発しながら「ずらし」を重ねて猥褻性自体を脱臼させ、以て政治的に妙に正しい、所謂PCなところに行き着くことも、当然、あるでしょう。表現自体として言うなら、これは肯定的に評価されるべきです。ただし、だからといって規制の対象外になるとは考えにくい——芸術性において貴賎を問わないとするなら、政治性においても当然、貴賎は問うてはならない。結果、猥褻何故悪い、以外に、規制に抗して性表現を全肯定する有効なロジックは存在しなかった。とはつまり、表象の読解を放棄しなければ、「自由主義」(という言葉を聞くとつい冷戦時代の「自由主義陣営」の夜郎自大な自己肯定を思い出してしまうのですが)的な性表現の全肯定は不可能だったということでもある。ただし、そうした全肯定は、差別的な性表現の商業主義的な垂れ流しに行き着いた。これが今日の状況です。

書斎の緞帳の下にエロ絵を隠して同好の士とのみ分かち合うこと、袖の下で、或は外套の下で売り買いされる猥褻文書を読んだ者同士が、その凄さ駄目さをひっそりと評価し合い、読者を広げていくこと。どんな規制の下でも猥褻表現はそのようにして読み解かれ、取捨選択され——表象として丹念に読解されて、生き残って来た。猥褻ではなく芸術だ、が意味を持つのはそういう場においてです。今日でもそうした形で読み解かれることを期待して所謂「地下」で発表する表現者はいる。所謂「規制」の対象となるとも思えないにも拘らずそうした方法を選ぶのは、商業主義的な形で「消費」されることを拒むから——猥褻何故悪い、という野蛮な今日性が、表象の読解とはほど遠いところにあるからでしょう。そういうものが、幾らかの時差を経て輸入された時に、革命的な性表現として、スノビッシュに鑑賞される。別項で論じたのは、それが本当にそうなのか——性表現はどのくらい革命的でありうるのか、その射程と深度はどのくらいのものでありうるのか、であり、その点について私が懐疑的であることは、sk-44氏はお読み下さったので、理解しておられるでしょう。ただしそれは、規制論とは直接には関係がない——性表現が何かを解放するという幻想に冷や水をぶっかけておこうと考えたのは事実ですが、だから規制可、と言えるとは、私は考えていません。このこともまた御理解いただければ幸いです。規制論において問題になるのは、性表現を「解放」するために——表現を現実の力学の世界で流通させるために(純粋な意味での解放は、表現自体においては概ねいつでも可能です)用いられた、猥褻何故悪い、という、それだけなら全く無害なロジックが何故、性差別的表現の商業主義的垂れ流しを招いてしまったのか、です。

sk-44氏は陵辱ゲームを「退廃的」とされた。ある表現が退廃的であるからという理由で規制するのは間違いである——それは常識でしょう。陵辱ゲームを「退廃的」とすれば、本来は性の多様なあり方のひとつであるのに「世間様」から一方的に是非を決めつけられ迫害されるもの、ということになる。これは陵辱ゲームを擁護する方に共通するロジックです。「健全」で「社会的」なら規制される理由がない、も同様です。「世間様」が個人の性的な嗜好を一方的に裁いてるぞ、官憲横暴、とでも言いますか。実態として言うなら、陵辱への嗜好はリアルにおいてであろうとゲームとしてであろうと、完全に個人的なものでは必ずしもない。この社会は暗黙の掟として強姦を肯定している——そのねじれを、「懲罰としての去勢」では指摘なさっていたと理解していますが、もしその通りだとするなら、強姦と陵辱ゲームの間に「懸隔」などあろう筈もない——同一の掟に従っている、という点では。

さて問題は、猥褻何が悪い、が何故、差別的表現の商業主義的垂れ流しに行き着いたか、です。性は本質的に差別的だから、では十分な説明にはなりません。人間が認識し表現できる範囲において性は差別的だから、でもまだ不十分です。本質的に意味を欠いた身体的な快楽が意味を与えられ認識可能になる過程で、性は差別的なものになる。その過程を意識しない限り、思考としても表現としても多くは望めない。おっしゃるところの「上の口」の汚染であり、それを前提としなければ、社会思想としても意味のある議論ができるとは、私は思いません。性を性として認知する段階で、我々は「世間様の裏のご意向」を切除不能なものとして組み込んでいる。となれば、性の全肯定が暗黙の掟の全肯定になるのはむしろ避けがたい。これは売買春やそれに伴う人身売買の問題にも適用され得るものでしょう。我々の社会にあっては、批判的思考を伴わない限り——もしかすると伴ってなお——性は抑圧と収奪の機械として動いている。

表現を通して性を俗へと返すことは、従って、不可能です。俗へと返す、という行為そのものが、性と「聖」の結び付きを一層深めてしまう。ここ半世紀間における性の解放はそうした結果しか生んで来なかったとしか、私には思えない。スカトロやSMや乱交がよいご趣味になろうと、身体改造がお洒落になろうと、ロリコンがカジュアルに消費されようと、何が根本的に変わる訳でもない。或いは、聖と俗はそもそもひとつながりのものであるのかもしれず、故にどう俗へと返そうと性はある聖を戴く制度から別の聖を戴く制度へと譲り渡されるだけなのでしょう。ポルノグラフィの規制でこの問題が解決されることはありませんが、解禁で解決されることもまたなく、性の多様性は、「世間様の裏のご意向」に予め書き込まれています。故に、性の自由と多様性を無批判に讃える限り、全ては依然「世間様」の掌の上です。

では性において個人の領域はないのか、自由意思は存在しないのか、と言えば、汚染の自覚のないところには存在しない、と答えるしかないでしょう。「世間様の裏のご意向」の操り人形であることを自覚したところで初めて、表現は自由の領域の拡大を手探りすることになる。表現の享受にしても同じことです。「世間様の裏のご意向」に盲目的に服従して、表における差別的構造にただ乗りした蹂躙の表現——表現自体に加えてその商業的流通が更に蹂躙として機能するという、二重の蹂躙の表現を垂れ流す権利を主張する限りにおいては、「表現の自由」の主張はあまりに弱い——蹂躙されるのは御免だ、という、純然たる自己保存本能に基いた声や、そうした主張を正義だと感じる声とぶつかる時に、性のそもそものあり方に目を瞑って完全な自由意思の産物として規定し、聖域化した、そもそものはじめからのフィクションに基く「表現の自由」では論として弱すぎる。現実の性犯罪と同一の掟に盲目的に服従している限り、虚構だから無害、さえ成り立ちません。

自由意思はもちろん虚構です——基本的人権が本能から来る虚構であるのと同じくらい、人格の一貫性が虚構であるのと同じくらい虚構です。ただし内奥にまで及ぶ「世間様」の支配を意識し、迷いながらも制御しようと努力する人間からなる「自由な社会」を成り立たせるには必要不可欠な虚構です。迷いながら努めることなしに自由意思は存在しない。そうした自由意思に基く「にも拘らず強姦で抜かせろ」なら、或いは「表現の自由」の主張として成り立つかもしれないし、「蹂躙からの自由」と折り合いを付ける方法はあるかもしれない。これは今のところあくまで、かもしれない、ではある訳ですが。現実には、自由意思は「自由な社会」同様、僅かずつでも躙り寄るべき目標です。これは「自由意思」なる語の起源からもそう遠くはない筈です。

現実の社会は「自由な社会」からはほど遠い——これはお互い何度となく確認したところです。人権という虚構さえ、十分に理解され受け入れられているとは言いがたい。そうした現状において、例えば公共圏における討議で陵辱ゲームを検討することは、マイノリティ叩きを経て「表現の自由万歳、お前らは黙ってろ」に至る可能性が大きい。表象の読解もまた同じです。かくも「世間様の裏のご意向」が浸透した状況においては、性の認知が、表現が、表現物の商業的流通が「浸透」を強化する方向に働くのと同様、言論も、読解も、同じ方向に働く。そうした意味では、社会思想として抽象的な人間の抽象的な自由意思の蹂躙を問題とする場さえ、現実の力学を逃れることはできない。

現在webは、様々なノイズを孕みながらも、最も言論と言論のつき合わせによる対象の批判検討が可能な場です。未熟ながらも最も「公共圏」に近い場、と言ってもいい。そうした場においてさえ、性犯罪被害者の陵辱ゲーム批判にセカンドレイプ同然のコメントが加えられる。DQNはどこにでもいるでしょうし、それが擁護派の全てではないことを願ってはいますが、とすれば何故、そうしたコメントに対して擁護派は批判のコメントを加えないのか。残念ながら沈黙は同意と取らざるを得ない。結局これは、対抗言論による批判がまともに機能しないことを示唆しているように思います。仮に規制賛成・消極賛成派の女性が件のゲームを表象として読み解き(問題のゲームの版元が素早く逃げてしまったがために、現実には、残っているゲーム紹介ページや攻略サイトの図や文や、十八歳以上ですかYesをクリックしてダウンロードできる他のゲームを参照せざるを得ない状況ですが)、差別性の有無を論じたとしたら、どういうことが起こるかは火を見るより明らかでしょう。対抗言論も、表象の読解も、「汚染」が自覚されない状況においては機能しない——機能させるためには言論による介入(DQNは黙ってろ、で十分です)が必要でしょうが、そういう介入はほとんど行われていない。

「表現の自由」と「蹂躙からの自由」は千日手です。故に、この場合はどうするのが妥当か、以外の暫定的な結論以外は出るべくもない——結論を固定する「正義」はこうした場合、必ずしも望ましくはないでしょう。従ってそうした暫定的な結論が依って立つロジックは、個別利害と個別利害の対立を、諸般の事情を考慮しつつ、どう調停するか、でしかあり得ない。個別利害を考慮しない思想的結論(これが所謂「無知のヴェール」の下で追求されるものですが)をそのまま現実に適用することは可能か、ということは措くとしても。商業的流通が問題となっている場合には、当然、法の出番となる。ただしこの国の「自由な社会」への遠さを考慮した場合には、法を引っ張りだすのは非常に危険である——G8中児童ポルノの単純所持を禁止していないのはロシアと日本だけ、という現実は、一般に理解されているのとは逆の意味で理解されるべきでしょう。ロシア同様この国では、単純所持の禁止などどう使われるか知れたものではないことを歴史的事例が語っているから——故に、法によらない流通の規制、というのが、sk-44氏と私の一致した点であり、その点は変わっておりません(つまり法規制には原則賛成ではあるが、特殊事情を考慮してこの場合は避け、代替措置を支持するということです)。ただし、法によらない規制が法治国家において望ましい事であるのかどうかには、私は依然、多少の疑問を抱いていますが。


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Notifié le le 13/07/2009 à 12:47

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