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03/06/2009

もういい加減にやめにしようと思っていたのだが、「ルワンダ虐殺のDJ」呼ばわりされては黙っている訳にも行かないので書くことにする。ちなみに『地を這う難破船』氏には常々深い敬意を抱いているし、言論商売人の言論などより一般のブログの方が余程ちゃんとしていると私が確信するに至ったのは、この方を含む何人かのブロガーが一読に値する以上のことを書いているからである。商売人なんて信用しちゃいかんよ、連中、『レイプレイ』問題に関しちゃまだだんまりを決め込んだまんまだろ? この件がどのくらい続くか、どのくらいの収穫の上がる畑か見極めて、事態を左右するには手遅れという段になってから、例によって役にも立たない、故に何を失うこともない、取り敢ず声は上げ続けてるから、という議論で稿料を稼ごうと思案してる最中だからね。そういう姿は教科書問題でとっくり拝ませていただいた後だ。一つ、賭けをしてもいい——この件に関して公のメディアで口を開いて「表現の自由を守れ!」「被害者なき犯罪!」「二次元無罪!」と叫び出すのはフェミニストだ。全く、いつもながら糞の役にも立たんな。

さて、言いたいことは単純明快だ——「ゴキブリを殺せ」というプロパガンダに相当するのは、陵辱ゲームと規制の主張、一体どちらか。

然様、プロパガンダである。

『レイプレイ』に端を発した陵辱ゲーム規制への動きをラシュディの『悪魔の詩』問題と単純に結び付けて、だから表現の自由を守る側に付けと言われても、私としては、問題を取り違えてないか、と言わざるを得ない——『悪魔の詩』は反ムスリムのプロパガンダではない。イスラム世界に根を持ちながらヨーロッパ世界で暮す人間の苦悶についての小説であり、読みようによっては困難な信仰の書であり、少なくともカトリックについて同じようなことを同じように書けばそう読まれる可能性のあった書物である。殺害された五十嵐一氏にしても、反イスラムの書では必ずしもないことを明らかにしようというのが訳出の意図であった、というのが正確なところだろう(五十嵐氏のエッセイ集はその意味でも、また、この国にも極めて尊敬すべきイスラム研究者がいたことを確認する意味でも、一読に値する)。ところが『悪魔の詩』は、現在では、ムスリムは表現の自由を圧殺する、というプロパガンダのトポスになってしまっている——『地を這う難破船』氏がこういう場面での説得の材料に使ってしまっているように。

『悪魔の詩』がそういうトポスにならずに済む機会が、少なくとも一度はあった、と私は考えている——冗談みたいな話だが、在英ムスリム団体があの本に冒涜罪を適用するようにと当局に訴えた瞬間がそれだ。逆説的だが、もしイギリスの法廷が、冒涜罪は国教会とその首長である女王に対する冒涜に対してのみ適用される、などという固いことを言わずにラシュディ氏を召喚していたら(かつ、表現の自由が、とか言わずに、悪意の有無を徹底して追及していたら)、ラシュディ氏はむかつきながらも西と東の狭間に立つ作家としての実績を重ね続け(今だって悪くはないのだが、読まれ方はまるで変わってしまった)、少なくともイギリスは——もしかするとヨーロッパを含む、所謂「西」の世界は、ムスリムとの相互尊重と共存への期待をアピールすることができたのではないか、と。

(関心のある方はここをご覧いただきたい——かなり直訳だが、参考になると思う)

あまりにも政治的すぎる見解、と言われることは承知している。絵空事に過ぎる、と言われる可能性はもっと承知している。ところでこの絵空事とは、実際には何なのか——排他的な信仰に基礎を置く二つの文化が、相互の不信感と敵意は消え去ることがないとしても、当座は潰し合いに至ることなく休戦状態を保つことだ。もしざっくりした「司法の介入」でこの休戦が贖えるとしたら安いものではないか。

さて、もし『地を這う難破船』氏が、今回の件で、表現者として表現の自由の側に立て、と説得する材料に使うとしたら、より適切なのは『悪魔の詩』ではなく、例の『ムハンマドのターバン』であっただろう。たかが信仰を風刺したくらいで大仰な、所詮は絵に描いたものにすぎず誰も実際には傷付けられていないのだから、ムスリムも多少の不快は我慢すべきだ、表現の自由は飽くまで守られなければならない——と言う風に、一般には取られているようだから。ところで私の経験はそうは言わない。『ムハンマドのターバン』は悪質極まる反ムスリム・プロパガンダであり、表現の自由を理由にこのカリカチュアを擁護することは、現実に存在する移民差別(忘れてはいけないが、連中は中東の人間と北アフリカ系の人間と例えばブラジル人を区別できないし、そもそも区別しない——ロンドンでのテロの後に起こったブラジル人射殺事件を見ればお分かりの通りだ。そしてデンマークは——他のヨーロッパ諸国もそうだが——呑気なる日本人諸君が想像するようなおとぎの国では全然ない。ドイツのネオナチが「総統」の誕生日に国境を越えてやって来てコスプレ行進するのを許していたような国で、移民やその二世三世が日々どのような差別にさらされているかを考えると気分が悪くなる。もちろん、おのが体験に照してだが。そういう国では、当然ながら、アジア系である日本人の居心地も悪い)を助長することに他ならない。可能であるならば、デンマークの当局は火急かつ速やかに、当該新聞に警告を発するべきであった。これもまた、ざっくりした「介入」によって休戦状態を贖う為に、である。

『レイプレイ』を含む陵辱ゲームもまた——全然本意ではないだろうが、いいことに気が付かせてくれた点で『地を這う難破船』氏には感謝する——悪質なプロパガンダ、「ゴキブリどもを殺せ」と呼び掛けるプロパガンダだ。無邪気な性的幻想の表現などではない。たかが絵に描いたゲームのどこが、と仰るだろう。それを言うなら「ムハンマドのターバン」だってそうだし、ナチが流石に外聞が悪いと言うのでベルリン五輪の前にやっきになって回収した類の反ユダヤ主義カリカチュアだってそうだ。『戦場のピアニスト』を引き合いに出すなら、その点に一考の余地はあっただろう。たかがカリカチュア——たかがプロパガンダの先に何があったのか、を。差別的プロパガンダとしてのカリカチュアやフィクションや「ゴキブリを殺せ」が人間が何をしでかす土壌を作り出したのか、我々は既に知っている。表現を舐めてはいけない。たとえ絵に描いたものにすぎないとしても、それは確実に、人間の心に何かを刷り込み、作り出す。だから、ヨーロッパの多くの国では反ユダヤ主義的表現やナチコスプレを(何、一見じゃ無害なものなんだよ——ポインターで絵に描いた女の子の股間をつつくのと大差はない)、表現の自由の原則を曲げてでも、禁止している。できれば反ムスリム・プロパガンダにも同様に対処してもらいたいと思う。ざっくりした「介入」で休戦状態を贖えるなら安いものだ。

いやそれでこの場合何の休戦?

私の二度に亘る記事に付けられたブックマークを見ていただければお判りだろう。怖い、と仰った方の気持はよくわかる——女性なら当然だが、怖がらないように。これは連中の手だ。怖がらせて、萎縮させて、発言を封じようとする。強姦する時に散々びんたを食わせて萎縮させるのと全く同じ、女の分際で生意気抜かしてるとやった後死体にして河原に捨てるぞと書くほどの馬鹿がいないだけましだが、単に通報が怖いからだろうね——と、少し年季の入った女性なら言うだろう。正直、これだけの数のまともな人がいたと言うことの方が私には驚きだが、しかし案の定浮かび上ってきたのは女性に対する憎悪だ。しかもあなた、こちらの二度の書込みは、可能な限り女性としての立場を離れてのものだったからね——女性として思うところを正直にぶっちゃけていたら何を書かれていたか、想像しただけで身が竦む。おお、こわ。

差別? そんな言葉で諸氏が想像なさるようなぬるいもんじゃないですよ、我々が日々直面してるのは。たとえばハッテンバに迷い込んだら男だって強姦される(されないって。彼らには君らと違って分別がある)、だから女も外をうろつく以上(電車に乗って会社行って帰って来るだけですが何か?)強姦されるリスクを呑め、と書く奴(そう考えている奴も幾らでもいるだろう)が顕にしているのは、理不尽な、ほとんど呆然とするしかない憎悪だ。ただし五月蝿く咎め立てしようとは、今はもう、思わない。普通のことだからだ。普通に、日常的に、会社にいても社交の場にいても、家族や交際のある相手と一緒でさえその存在を忘れられないくらいに、そこらにあるものだからだ。

であればこそ「裏の窪地で射殺」と書いた訳だ。あの話を知っている人がいなかったのは実に残念だ。餓鬼が占領軍の兵隊に買収されて抵抗組織のメンバーの隠れている場所をちくったら親父にばれて、裏の窪地に連れ出されて射殺、母は何が起こるか知ってはいたが無言でうつむいていた、って、「フランス、アルザス」と同じくらい古い話だ。つまりは、国家の下請機関として家父長制が機能していた頃の「美談」だ。そういう制度下では女は家父長の財産である。故に傷物にでもしようものなら、家父長が先詰めショットガン持って出ていって、相手の男の上半身と下半身を泣き別れにすることになっている(実際にはもうちょっと練れた展開になると思うが)。そんな制度下で、どこそこの娘が強姦されている絵を友達が描いたんで見ながら一発二発抜いた、なんて自慢話をしてご覧なさい、リアルかヴァーチャルかなんて区別はない、恥をかかせたと言う話になって結果は同じだ。こんな時代錯誤な話を書いた理由が何かと言えば——勿論家父長の所有物であることが幸せとは思わないが、こうも日々、そこら中で剥き出しの憎悪に曝されてる時に(特に勤めてたりするとね)、憎悪の行為に他ならない強姦をマンセーして、ヴァーチャルなんだから文句も言えないでしょざまあみやがれテヘッ、とか言う奴を見ると、こういう奴がぶち殺されるのを見る為ならそれだって我慢する、という気にもなる訳だ(永遠に死んでろとは流石に言わないけどさ)。まあ、びびる気持ちも判るし、ゲイだって撃ち殺されるんだぞ、と言われると、ごめんね、ゲイは悪くない、という気持ちになるが(同時に、恥知らずの変態が何でゲイと自分たちを一緒にするんだよ、とも思う。まあ、ゲイの皆さんはこういう低レベルな殴り合い、鉈の振回し合いの仲間には入りたくないだろうが)、憎悪の垂流しは憎悪を呼ぶのである。ぶっちゃけ、議論の為に、何にも考えない無検閲の本音を提供しよう——お前らの夢に見る古き良き家父長制の下でも、お前らみたいなのはぶち殺されるんだよ、男仲間の処罰なんだから本望であろ? さっさと死んでこい。そして言うまでもなく、こういう差別的な憎悪を垂れ流すことも、表現の自由は保障している。

差別的であることと差別の間にはもちろん雲泥の差がある——「ゴキブリを殺せ」とラジオで喚き立てることと、鉈を持って隣人をぶち殺して歩くこととの差、とでも言おうか。やや読解力の心許ない諸氏の為に注釈を入れておくならば、憎悪を浴せ掛けられる者にとって一方を他方と区別することは危険であり、無用でもある。「ゴキブリを殺せ」とラジオでがなることが表現の自由の名において許容される社会は、いつ殺されても仕方ないし、同情もされない社会だ。そのくらいの用心はしていないと、物の弾みで本当に殺されかねない。そしてそれは、反ユダヤ・カリカチュアの話でもお判りの通り、あながち杞憂ではないのだ。

変態性欲で差別されているという陵辱エロゲ愛好家の皆様、そういう、いつ殺されても不思議はないくらいの憎悪に日々曝されていると感じながら生きておいでかな? 怯んだら負けだと自分に言い聞かせて生きておられるかな? 恐怖のあまり反対側に振切って、ゲームをしているところを怒り狂う女どもに見付かって八裂きにされる想像じゃないと抜けない、というところまで追い詰められた人はどのくらいいる? 女なら、幾らでもいるだろう。差別とはそういうものだ。

もしあなたもそういう状態にあると言うなら、あなたは我々の同志だ。お互いの憎悪に怯える者として、解決の道を探ることも出来るだろう。でなければどちらかが、或いは双方が、より文明的な形で鉈を手に相手の頭をかち割ろうと試みることになる(葛、ってのはなしな——とか書くと怒られるだろうな)。

憎悪を向けられ、憎悪で応じる——そうした悪循環で、男性女性双方からなる社会の安寧を危機に曝さないために、何より、ささやかな無人地帯で束の間添寝をする幸福な男女の為に(まあ、『ノーマンズ・ランド』みたくなっている場合もままあるが)、憎悪のプロパガンダは制約されざるを得まい。ざっくりした「介入」で休戦状態を贖えるなら安いものだ。

オレの中の煮えたぎる地獄をどうすればいいんだよ、と仰る方、そういう訳でその地獄の表現物は、表での流通消費を許されない場合もある。煮えたぎる反ムスリム感情の地獄とか、煮えたぎる反ユダヤ主義の地獄とかを抱えておられる方々と同じである。ただし、「休戦」は「休戦」だ。人類が人類である限り「和平」も「恒久平和」もないだろうと私は考えており、故にどう「休戦」したところで消え去るものでもあるまい。多少の制約にはめげず精進に励まれたい。それはもう、どんどん悪質化しながら。ただし、明るいところに出すべきではなかろう。それじゃ商売にならないって? 有毒物質含有のプロレフィードを意図的に売っている以上は覚悟の上だろう、としか言いようはない。憎悪のプロパガンダを垂れ流すことを商売にした責任なんて、他人は取りきれないよ。

表現の自由の暫定的な制約が何か大変な言論大弾圧を招くのではないかと恐れる方、実際反ユダヤ主義的表現に課された制約がどれほど恐ろしい事態を招いたか、知っておられるようならご報告いただきたい。私は現在のドイツが、一物書きとしての私が警戒を余儀なくされるほど厳しい言論弾圧の下にあるとは、寡聞にして、聞いたことがない。

自主検閲で十分、と仰る方、それはまあそうであるのだが、規制は自分たちの心の中にあるのではなく外の理不尽な法にあるのだ、という状況の方が、心の自由は守られているとは感じないか。

言論の自由市場に任せる、と仰る方々、その自由市場とは、即ち憎悪のプロパガンダの垂れ流し合い、言論の鉈での頭のかち割り合いに他ならない。それがどれだけ憎悪のエスカレートを呼ぶか、考えただけで恐ろしくならないか。おまけに、結論は永遠に出ない。私は物心ついてこの方、性別からして当然だが、女性に対する暴力的な性表現に関する議論が何らかの良い結果を生むのを待っていたが、三十余年を経た今でも、事態は何一つ変っていない。

さあて見ててご覧、私のこの書込みに対して、どれほど沢山の意図的な、また意図されざる「ゴキブリを殺せ」が書込まれるか。こうした声こそ、他の何にも増して、ざっくり「介入」して休戦を贖うことの必要を語ることであろう。

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⇒2009.6.3: 日記 『悪魔の詩』がそのような小説であることは承知です。当然読んでいるので、ダシにしているのではない。ムスリムが表現の自由を圧殺する、ということではない。そういうのは単に「ゴキブリどもを殺せ」というプロパガンダであり、よく言って偏見の羅列です... [Lire la suite]

Notifié le le 04/06/2009 à 15:29

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