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08/06/2009

なるほど、大分すっきりわかってきました。

「雉も鳴かずば」がそういう意味だとすれば、私の回答はこうなります

1. 雉は鳴くものです。鳴かなければ雉はそもそも存在しない。
2. 鳴いた雉が撃たれることは当然阻止しなければなりません。
3. しかし、雉を撃つな、が、差別を受けているマイノリティ(この言葉は嫌いですが)に対する差別的プロパガンダに利用されている場合、一緒に声を上げるのは御免です。

1. については後述します。2. は当然な話です。問題は3.でしょう。

五十嵐氏の事件を引き合いに出すことは、やや不穏当だと思われます。何か裏情報をご存知なのかもしれませんが、少なくとも私は誰が何故やったのかの確定情報を持ってはおりません。その状況で特定の人々を犯人として名指し、雉を撃つなと声を上げることには、躊躇せざるを得ません。五十嵐氏の事件が反ムスリム・プロパガンダに利用されるのは、訳出の意図を考えれば尚更、嘆かわしい事態ですから。国外のwikiをご覧いただければ、既にそういうことになっているのがわかるかと思います。

いや、駄目だね、五十嵐一氏の死を忘れるな、表現の自由を守れ、などというシュプレヒコールにはとても参加出来ない。そんなことをするには、私は氏の仕事に敬意を持ちすぎている。

(国外の状況を日本の状況に適用して理解するのが困難だと言うギャラリーの方々の為に、反ムスリム・プロパガンダとしての「表現の自由を守れ」に、作家の癖して無条件に唱和しない理由を、日本の場合に置き換えてこう説明しておきましょう——歴たる言論人が特定のマイノリティについて公のメディアで、匿名掲示板でしか御目に掛れないような誹謗や中傷を弄したが、自称「自由で寛容な社会」において全く批判されないどころか「よくぞ言ってくれた」「勇気ある発言だ」などと称賛を受けるばかりである時、他の手段がないところまで追い詰められてぶち切れたマイノリティが仰るところの「自力救済」に訴えても、湧き上る非難の声と表現の自由を守れと言う大合唱に参加する気にはなれない、という話。それがどういう利用のされ方をするかは目に見えているから——ましてそれがネットではおなじみの「***は国に帰れ」コールと一緒では。下衆の仲間入りは御免だからね)

撃たれてはならない雉と撃たれてもいい雉がいると言っているように見えるが、と聞かれれば、全ての雉は潜在的には撃たれる雉だ、とお答えしましょう。「てはならない」でも「てもいい」でもありません。雉=表現者=人間だから撃たれてはならないのは当然ですが(故に「裏の窪地」は勿論非常に不穏当かつ不適切な発言です——君らの言葉で話してあげよう、という意図に基く不穏当かつ不適切ですが)、そういう問題について話をしておられる訳ではないでしょうから、それは措くとしましょう。

全ての表現者は潜在的には撃たれる可能性を持っている。鳴くから。そして全ての人間には潜在的に雉を撃つ可能性がある。雉の声に傷付く心を持っているから。心の問題など存在しない、と言う規制反対論者にしても同様で、もし本当に心の問題など存在しないのだとしたら、つまり純粋に法についてのテクニカルな議論があるだけだとしたら、規制反対論は純然たるナンセンスです——表現の自由は公共の利益に反すると認められた場合規制されることもあるよ、実例はこれとこれ、で終了ですから。そうではないから、つまり規制の可能性(自主検閲で決着を見るようですが、これは商売人以外の誰にとっても拙い成行きだと思います)に対する反応自体が心の問題であるから——実際のところは「表現の自由を守れ」ではなく「好きなだけ疑似強姦で抜かせろ、お前らは黙ってろ」であるから、規制やむなしと書かれたブログに押し掛けてヘイトスピーチの限りを尽すという事態に至る訳です。

そして、いかに表現の自由を守れと言うお題目のもとであっても反ムスリム・プロパガンダに加担するのは堪忍、であるのと同様、いかに表現の自由を守れと言うお題目のもとであっても、無体裁な差別的プロパガンダの垂れ流しに加担するのは、私は御免です。当の差別の対象となっているグループに属する人間であれば当然のことですが、もしそうでなかったとしても、差別構造温存のお題目として唱えられる「表現の自由を守れ」に声を合せるのは、名誉とは何かを心得る人間には到底できることではない。まあこの名誉という概念自体、全く以て家父長制のお古でしかない訳ですが。

*  *  *

知的で誠実な性暴力愛好者である方々は当然いるでしょう。名誉と言う概念をお持ちの場合には、知的で誠実な変態紳士、ということになるでしょうが、そういう人々に対しては、たとえヘイトスピーチのサンプルとしてでも、死ねや、と言うのは失礼なことでした——わざわざ他人に罵られなくても、自分が何を楽しんでいるのかはよくご存知でしょうから。また当然、他の人間を暴力で蹂躙する密かな性的夢想が堂々と流通し、そのことで他の人間を暴力で蹂躙したいと言う欲望が更に満たされている、という状況には困惑しておられるでしょうし、ましてそうした状況が「表現の自由」の名のもとに堂々と擁護されるのを見て、世も末だ、と嘆いておいででしょうから。そういう方は「表現の自由を守れ」と金切声も上げないし、まして規制派の女性のブログに延々とセクハラまがいのコメントを書き込んで戦った気になる、ということもない。愛好家の掲示板で、少々表に出すぎていたんだから仕方がない、というような書き込みをして敗北主義者と罵倒されているような方がそれです。

その種の変態紳士に対しては、私はむしろ非常な好感を持っています。自分がその嗜好においては堅気ではない、という自覚をお持ちの訳ですから。性的な嗜好において、人が完全に堅気であることは稀です。であればこそポルノグラフィは社会において微妙なものであり続けている。何でもありの全面解禁で白日の下に曝しておけば消毒され毒抜きされて明るく楽しいものになる、人間性万歳、というヒッピーじみた能天気な議論は、私の取るところではありません。性的な嗜好の中には、他者の自由な自己決定や人権を踏みにじるものや、余りにも暴力的なものや自己破壊的なものが幾らでも含まれているからであり、そうしたものがどのような経路から出て来るのか——生得的で生涯不変のものなのか、それとも社会的に刷り込まれた振舞いや価値観が性の領域をも、日常的な社会行動においてより遥かにねじくれ誇張された形で支配しているからなのか、今のところは明らかではないからです。

仰る通り、性の問題は非常にセンシティヴです。他人が立ち入り、あれこれ言うべきことではありません——少なくとも「私」の領域に留まっている限りは。そうしたものを何故「公」の場にさらけ出したがるのか、私には理解不能です。商品として流通し消費されているとすれば、それは既に「公」のものであり、「私」の領域で密かに楽しんでいる場合には想像もしなかったような社会的な意味を帯び、指摘されると仰天し狼狽し激怒する他ないような批判を浴びることになる——たとえば、差別的な憎悪のプロパガンダである、というような。実際、「私」の領域に留まる限りは他愛のない復讐の夢に過ぎないものも、「公」に流通し販売され消費される場合には、憎悪の垂れ流しに変わり、成行き次第では規制を受けることもあり得ます。流通は「公」だが、購入して鍵の掛かる抽斗に仕舞えば「私」のものだ、というのは些か甘い考えです。ましてそれが商業的に制作され流通しているものを消費しているのでは、率直なところを申し上げるなら「私」を「公」に売り渡している——或いはプロレフィードで飼いならされて金を絞り上げられている、と言うことになる。プロレフィードは、言うまでもなく、「私」の領域を「公」に管理するための媒体です。規制反対、表現の自由を守れ、という声に失笑を禁じえないのは、そうした文脈などまるでないかのような無邪気な物言いに聞えるからでもあります。「私」の領域を「公」に売り渡した以上、「公」の良識(w、と書き添えてもいいですが)の批判を浴び、規制されることも当然あり得ます(かつ、私はその規制に反対はしません——理由は前回既に書いた通りです。現状の認識も、最終的な目標も必ずしも違うとは思えませんが、根本的に立場が異り、故に目標に至る道筋も違うことは了解しました)。それは「私」の問題です、公的な規制には馴染みません、と仰るなら、では「私」の領域に持ってお帰りなさい、人が足蹴にしかねない場所、拾い上げられて利用されるような場所に大切なものを置いてはいけません、とお答えするしかありません。

同時に、どれほど非人道的な性的夢想をどれほど過激に表現しても、「私」の領域に留まる限り、「公」は口を挟むべきではないでしょう。それを友人や愛好家に回覧したり内輪で頒布したりしても、やはり「私」の領域に留まることです、「公」は口を挟むべきではありません。その内輪がどれほどの数であろうと、飽くまで内輪のことである限り、「私」の領域のことだ、「公」は口を挟むな、と言って構わないと思います。とは言え「公」は必ず口を挟んでくるでしょうが、その時には「私」の領域を「公」が侵犯している、と言ってくだされば、私のような保守反動でもずっと味方はしやすいだろう、と申し上げます。どれほどのヒステリー婆ぁでも感嘆しなければ恥、というような達成をお土産に持って来てくださればなお結構。

商業的な表現物としての死は、必ずしも表現物としての死ではありません。規制すれば表現は死ぬ、と考えることは、更に過酷な状況下でも死に絶えることなく生き続け、最終的には芸術的な、或いは特殊な状況においては政治的な達成を獲得してきた地下出版の豊饒の歴史に対する侮辱なのではないでしょうか。

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など「地を這う難破船」「地下生活者の手遊び」その他はてなの人気ブログ、ホットエントリなどで話題になっていた最近の、性的なゲーム(婦女暴行を扱う)の一部が国際問題になっているという話で http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20090606 から、作家・佐藤亜紀氏が何度か話題... [Lire la suite]

Notifié: 08/06/2009 09:09

» 憎悪の蓋 [地を這う難破船]
⇒2009.6.7: 日記 五十嵐氏の事件を引き合いに出したことは不穏当でした。弁明させていただきますが、雉を撃つな、と言っているのでは私はない。雉を撃つな、とは誰に対しても言いません。誰が何故やったのか、ではなく、官憲が仕事をしないとき表現の自由について国家の法... [Lire la suite]

Notifié: 09/06/2009 13:11

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