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05/06/2009

『地を這う難破船』sk-44様

概ねの論旨については見解が一致したと考えておりますが、まず最初の二つの段落について、誤解を正させて下さい。

ラシュディ事件に限って言うなら、問題は自力救済ではありません。自力救済(というのは後の文脈を引き出すための語だと思いますが、『悪魔の詩』の件に適用するのは不適切です)やむなし、の状態に追い詰め、ファトワという最悪の事態を招き、ムスリム対ヨーロッパというどちらも後に引けない状況を(しかもこれは国外との対立であるばかりか、国内に抱え込むことになる対立でもあります)招かないためにはどうすればよかったのか、という話です。リンク先をお読みいただくのはかなり辛かっただろうとは思うのですが、実際在英ムスリムはイギリスの国内問題として、イギリスの社会と法に従った形で、問題の解決を図ろうと試みた訳です。その結果出て来たのが『冒涜罪』なる、笑うしかないような罪だったとしても、この時、イギリスの当局が実際ラシュディを冒涜罪で法廷に立たせることに決めていたら、そのあとのようなことは起らなかっただろう、つまりはちょっとした政治的な判断で、ラシュディはその著書に冒涜的な意図は全くなかったことを公に宣言することが出来(まだ今のように怒ってはいなかったでしょうから——表現の自由だ、阿呆な宗教を虚仮にして何が悪い、と言った可能性もなきにしもあらずですが、それではあの小説は、あれほどのものにはなっていなかった筈です)、イギリスの社会はムスリムを尊重しているというポーズを取ることが出来、ムスリムは国元の世論に訴えずに済み、とすればファトワはなく、そうした全ての結果としてイギリスのムスリムは孤立感を深めずに済み、もしかするとロンドンの地下鉄テロは起らずに済んだかもしれない、と言っている訳です。

建前オンリーのリベラルな躊躇(それはまあ、冒涜罪などというのは文明社会にとってあり得べからざるものであり、論外、ではある訳ですが)が双方にとって何と高く付いたことか、という話だとお考え下さい。これは政治の問題です。

更に二段落目、気になるのは鍵括弧です。

「五十嵐氏はあの本を翻訳しなければよかったのに」
「雉も鳴かずば撃たれまい」
「発破をかけている」
にわざわざ鍵括弧を付けたのは何故ですか。強調を必要とするような文とも思えない。とすると発話ということなのかもしれませんが、私の発話ではありません。私は五十嵐氏の訳の意義について触れていますし、「雉も鳴かずば撃たれまい」に類することは一言も書いていない訳ですから。当然
「表現が必然的に誰かの逆鱗に触れうることに対して生き死にの話を持ち出して『雉も鳴かずば撃たれまい』的な話をしている」
のは私ではありません。鳴いた雉が撃たれる前に(雉は鳴くものです)、射手との間に介入し調停する必要の話をしているのです。故に「『発破を掛けている』のは勝手です」と言われても、誰が誰に向かって? と言わざるを得ません。

まさか佐藤亜紀は表現者でありながら表現の自由の敵だぞ、五十嵐一のことを「雉も鳴かずば撃たれまい」と言う奴だぞ、その種の自力救済を準備しているぞ、という印象操作を行おうという訳でもありますまい。五十嵐氏の事件が時効になった、などとわざわざ余韻たっぷりに付け足す理由まで勘ぐりたくはないので、納得の行く説明かをいただきたいものです。同じことは「リテラシーの問題」とおっしゃる「ルワンダ虐殺の際のラジオDJ」にも言えます。

「佐藤さんの『言い方』はちょっと賛成できませんが」
という対話相手の方の発言を受けて
「このようなきわめてセンシティブな問題についてインターネットで「煽る」ことがルワンダ虐殺の際のラジオDJと何が違うのかさっぱりわかりません」
と書くことはあまりにも紛らわしい。正直なところ私にも、そちらの真意が何なのか理解しかねます。佐藤亜紀はルワンダ虐殺を煽ったラジオのDJ並みだぞ、という印象を与えようとしている訳ではないとすれば、この部分についても、納得の行く説明をいただきたいものです。

それ以外の点について大方の同意をいただけたのは結構でした。「自力救済」に限定されているのは気になりますが、問題がどのように見えなくされているかについての説明には感服いたしました。弁明させていただきたいのは二点です。

「ガソリンが満ちている空間に火種投げ込んでよく燃えたってのは単なるガス抜きにしかならない」
のは確かですが、私は別に「ガス抜き」をしようと思った訳でもなければ、「人の逆鱗を衝」こうとした訳でもない。陵辱ゲーム規制をめぐってやり取りされる言葉が何故これほど暴力的なのか、普通に女性が感じる恐怖を口にすると、やれ感情論に過ぎないだの、心の問題だから存在しないだの、ただのわがままだのというコメントがセクハラめいた表現を交えて加えられるのは何故なのか、そもそもそこで女性が感じる恐怖と問題のゲームに感じる恐怖が同種のものなのは何故なのか、をはっきりさせておきたかった。つまりは、おっしゃるところの可視化です。

第二に、私は基本的には、表現の自由は無担保であるべきだと考えています。どんな無責任な表現も許される。おれは表現の自由を尊重するよ、だって野蛮なムスリムじゃないもんな、と、馬鹿なドイツ人が口にする自由さえ認めます——流石はトルコ移民の家に火炎瓶を投げ込んで焼き殺すドイツ人、何とも御立派なな支配民族ぶりだ、と嘲笑する権利を握っている限りは。理性のある人間は神なんか信じない、と、ドーキンス流無神論者が信仰を持つ人間の前で放言する自由も認めます。ただし、今の発言で多文化主義や異文化尊重を語る資格は失ったぞ、と告げる権利があればの話ですが。さして非暴力主義者ではないので、その上で殴り合いが始まるのも認めます——条件が対等なら、ですが。ただし、稀に、例外的に、制約が加えられべきる瞬間もあると考えている訳です。

相違点はたった一つです。

自由で寛容な社会はその証文としてシメておくべき言動はシメておくべきでしょう。
実に心強い限りです。
比喩であれ文字通りの意味であれ、市民が市民として殴っておくしかないでしょう。
これほどの正論を見ることは滅多にない、と称賛させていただきたい。しかし、です。

これはある種の自警団活動の勧めなのではありませんか。いや、私は保守的な人間なので、自警団活動大好き、自警団活動萌え萌え、自警団がおかずならご飯が幾らでも食べられる、ではあるのですが、とは言え理性は、ちょっと待て、と言う訳です——法治の原則はどこへ行った? いかに言論の自由市場において多数を取ったとしても、だからというのでシメちゃまずいだろ。次の段階は法であり、法に定めてから法に従ってシメるというのが筋だろ、と。まして市民が市民として殴っておく、というのは、快哉を叫ぶ他ない光景だとしてもやっぱ拙いだろ、そういうのは法に(以下略)、と言う訳です。徒党を組んで出掛けて行って、自由で寛容な社会の名においてお前をシメる、とやるのは、どれだけ爽やかな光景だとしてもやはりリンチ以外の何物でもない。対立する二つの徒党が問題の馬鹿を吊るすか守るかでストリート・ファイトでも始められた日には、これはもう法治国家の黙示録的光景と言うしかない。何よりそれは、成文化されていない、部外者は犯して始めてそんなものがあったことに気付く類いの規範を増殖させることになる。これは自由で寛容どころか全く排他的な社会であり、そういう社会が不都合なので、法治の原則が生まれてきた訳です。

無論、問題は色々あります。まず第一に、法規制と聞いただけで震え上がる他ない我が国の社会と国家制度の乖離、の問題があるでしょう。法とはどこか上の方で偉い人が勝手に決めるもの、故にどんなものになるか知れたものではないので警戒を怠ってはならない、は事実だとしても、警察はしょうもないものに成り果てているので連中に法を執行されるのは堪忍、だとしても、それは法治国家の風景としては異常です。だから自警団活動、というのでは、国家は既に崩壊していると言っていい。そしてこういう状況の中で、憲法に定められた表現の自由は死守されなければならない、と言うことは、倒錯でしかないでしょう。増して、恐怖と憎悪を増幅させあう二者の一方が、おれたちはお前らを無法な暴力で支配する幻想を堂々と堪能するが、これは表現の自由として憲法で保障された権利だから我慢しろ、国家は既に機能していないから何をしでかすかわからないので、お前らが法に訴えることは禁ずる、精々小声で囀るだけにしておけ、と迫るのは、あまりにも自由で寛容な社会すぎて涙が出て来ますね。

民主主義国家も、自由で寛容な社会も、残念ながら未だ完成状態で機能してはおりません。表現の自由も他の基本的人権同様、宙吊りの状態です(おそらくは全世界的に普請中であり、かつ、この普請が完成することはどこであろうとないでしょう)。兎も角警察は拙いよだってあいつら滅茶苦茶だろ、という法規制反対論なら、全く政治的判断として——つまり、表現の自由が全く政治的に規制されることがあり得る、というの同様に、ああそりゃ確かに拙いよな、この腐れ国家じゃ、と私はお答えするでしょう。ただし金科玉条としての、法規制駄目、絶対、というのは受け付けられない——表現の自由は絶対で、それさえ振り回せば他の人権を踏みにじるのはOKだとすれば尚更です。誰かの恐怖と憎悪を圧殺した表現の自由に基いて、自由で寛容な社会とやらを更に発展させ、言論の力で法治国家をどうにか機能するものに是正することが出来たとしても、そうした達成の足許はひどく不安定だとは思いませんか。

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» 自由と寛容を自称する社会 [地を這う難破船]
⇒2009.6.5: 日記 佐藤亜紀様 ファトワと自力救済はそれは違います。これは、日本の法の問題です。問題は、ある書物を翻訳した日本の翻訳家がおそらくはそのことを理由として日本国内で殺害され、そしてそれは事件解決へと至らなかったことです。つまり、「ムスリム対ヨーロ... [Lire la suite]

Notifié: 06/06/2009 13:47

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