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29/03/2009

 ごく一握りの誠実で有能な方を除いて——と言うことにしておこう、皆無と言う訳じゃない——現在日本で文芸評論家として活動している人間は、概ね二種類に分けられる。チキンと、無能者だ。まあ文芸評論などというのは小説以上に食えないから、出版社のお覚えを損なわないよう、業界の爪弾きにならないようチキン化するのは理解できないこともない。しかし無能者と言うのは! 読解し論じるスキルなぞ努力次第で使える水準まで上げることも出来ように、それを怠っているというのは、これはもう犯罪である。
 だから文芸評論は使えないと作家に言われるのだ。チキンや無能者の評論を反省の種にする馬鹿はいない。評論と実作の間の良きフィードバックなぞ、勿論望むべくもない。
 では仲俣暁生氏はどちらであろうか。ブログに載せていた2009年のベストを見る限り、チキンであることはほぼ間違いない。立派な御用評論家ぶりだ。ではスキルの方はどうか。
 2007年、『ミノタウロス』を出した時、私は仲俣氏と公開対談をすることになった。本番の三日ばかり前、この対談をセッティングした人から電話が掛かってきた——読んだけどよくわからないから他の本について話がしたい、『戦争の法』では駄目なのか、と仲俣さんが言ってますけどどうしましょう。
 よくわからなかったなら仕方がありません、映画の話でもしましょうとお伝え下さい、アメリカン・ニュー・シネマの話はどうですか。
 すると翌日もう一度電話が掛かってきた。『ミノタウロス』でやります、と言うのだった。頑張ってくれと激励の言葉を託したが、その実、最早何の期待もしていなかった。当日、やってきた仲俣氏は一応『ミノタウロス』を読んだ感想から話し始めたが、その感想たるや——爽やかですね、だと。
 言わずもがなのヒントまでやったのに、まともな前振り一つできないとは。『俺達に明日はない』とか『ワイルドバンチ』とか見て、爽やかですねと言ったら馬鹿丸出しだ。『ワイルドバンチ』=娯楽路線と言った馬鹿もいたが、ほぼそれと並ぶ大馬鹿である。ま、どっちも見てないんだろうね。あんだけポップポップ言う奴がアメリカン・ニュー・シネマ見てないってのも如何なものかとは思うけど。仕方がないので何とか突っ込んだ話の方向に引っ張ろうとしたが、これまた悉く不発に終わった。多分、理解できなかったのだろう。わからなかった、というのは実に正直だ。終いには日本文学をどう思うか、と間の抜けた質問まで出してきた——『戦争の法』をちゃんと読み込んでいたら、そんな質問は口が裂けてもすまい。こちらもあまりのことに度を失って間抜けな返答をした訳だが、そうね、次にそういう質問する人がいたら、無言で中指立てて返答に代えますのでご覚悟のほどを。
 今日までこの話をせずに来たのは、仲俣氏とはもう何の関係もなかろうと考えたからだ。何の関係もない人間の職業的スキルの欠如を暴き立てて、辛い評論家稼業を余計辛くしてやる理由もあるまい。
 ところが。何を考えたか仲俣氏はSFマガジン増刊「Strange fiction」で「佐藤亜紀」の項目を書くという愚挙に出たのであった。わからないなら断って他人に回せば良かろうものを、何故引受ける? それともこれはチキン的マヌーバーか?

 構成要素を把握し、解釈を行い、論じる、というのが、前にも書いた通り、作品を論ずる上での基本的な動作である。構成要素の把握が甘く、故に解釈も甘い、というのが、要するに仲俣氏の「わからない」である訳だが、単純に「論じる」という部分においてさえ、仲俣氏はとんでもないスキルの浅さを露呈している。

 たとえばこうだ——「女だてらに戦争おたくっぽい」。内容の当否は措くとしても(とは言え脱力したことは確かだ——対談でこっちが近代国家と動員の話を喋ってる間、夕飯のことでも考えて何も聞いてなかったんだな)、女だてらに、とはいい度胸だ。多少なりともリベラルな文筆家で通したかったら、酒飲み話以外でこんな言葉は使っちゃいけないことくらい知ってるだろうが。女は家に入って子供を最低三人産め、とか、自治体と官公庁は共働き女性職員を追放せよ、とか言う人と勘違いされるぞ。保守反動の評論家として再出発する気か? 要するに言葉の使い方からして何にも考えていない。到底プロとはいい難い迂闊さだ。

 構成要素の把握の甘さから来る解釈の甘さもひどいものである。「反復される双子的登場人物」って具体的に何で何回反復されたかちゃんと押えてるのか? 「俗流メロドラマ的展開」の中にどのくらい引用や本歌取りが含まれているかきちんと論じられるのか? まさか『戦争の法』でわたしがげらげら笑いながらやった本歌取りまで「メロドラマ的展開」とか思い込んでないだろうな。そもそもそういう「間テキスト性」の概念があんたにあるのか? 『図書館戦争』と一緒くたに至っては、有川浩氏に謝れ、としか言い様がない。もちろん私にも謝ってほしいものだ。謝る必要はない、と言うならきちんと論証してみたらいい——余程の我田引水でもしない限りできっこないが。

 いやもう、ひどいもんである。これでは評論家という職業が舐められても仕方がない。有象無象があれならおれにもできそうと思い、実際評論家デビューしちまったとしても無理からぬものがある。今ほどきちんとした、つまりは誠実で有能な評論家が求められる時代はないにも拘らず、だ。小説が作家にしかわからないとはわたしは思わないが、仲俣氏にわからないことだけは確信できる。

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