水村美苗はファザコンである、日本近代文学は水村美苗にとって理想の父なのだ、「お父様、美苗はお父様のいない世界になんか生きていたくありません」って、いったいあんた幾つだよ——と書こうとしていたら、田舎から連絡が来て、父が急逝していた。享年73歳であった。
昔は、万が一そういう事態が起った時、「おやじっ、何故死んだっ」って暴力焼香((c)織田信長)をしたら顰蹙だろう、とか考えてにやにやしたりもしていたのだが、現実にXデイとして目の前にぶら下がってくると、そういう気持は失せるものだ。第一、叔父や、父と一緒に仕事をしてきた人たちが素早く駆け付け、あまりにも熱心に細心に万事を運んでくれるので、そういう馬鹿娘的悪行を働く隙はなく、結果的に、あんまり役には立たないが真面目な模範的遺族として過ごすことになった。週末の死だったので、土、日、月と三晩、遺体の側で夜明かしして、蝋燭と線香を換えていたのが葬儀の間の主たる仕事だ。既に退職した後なので内輪の葬儀を、と考えていたのだが、父の訃報は週末のうちにかつて働いた業界内部を駆け巡っていたらしく、結果的には相当に大規模なものとなった。無理にも時間を作って駆け付けて下さった方もおられた。感謝感激である。
それに劣らず感動的だったのは、雪が降る直前の氷雨の中で、野辺送りの出発を待っていて下さった大勢の方々だ。本葬が長引いたし悪天候だし、と、会場から棺を出す時には、会葬者だけの見送りを予想していたのだが、会場前には傘を差した方々が大勢来て下さっていた。自宅まで回る(本来の野辺送りはそこから出発ということになっていた)霊柩車の後を付いて門の辺りまで来た時には更に驚くことになった。ちょっとした人垣ができていたからだ。その中には、本葬の前に来て下さり、娘の私がちょっと驚くようないい人ぶりを教えて下さった方もおられた。以前の会社関係の人も大勢おられたようだ。これもまた感激であり、感謝である。
弔問の方々の言葉からは、引退後もご近所の人々から愛されていたことがうかがわれた。まあ一言で言うなら、そういうことであった——結局父は、生前面識のあった様々な方面の様々な方々からそれぞれに愛されていたのだ。生前、というか私がまだ小学校の頃、もう少し愛されるパパぶりを見せたらどうだと言った私に向かって「愛されるのがいいか怖れられるのがいいかと言ったら、怖れられる方がいいに決まっている。人間、愛する相手のことは舐めるが、怖れる相手のことは舐めないからだ」と嘯いた父が(パパ、それはマキャベリの半分だって、と、一日後には気付いたが)、結果的には人が大好きであり、人と交わることに生きる喜びを感じる人で、最後まで人との関係に支えられながら世を去ったことを、私は喜びたいと思う。
