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03/11/2007

某所で「‘異国物’のサスペンスを得意としてきた作家」と紹介されているのを見て苦笑する。

大学院の頃、日本美術史の先生が退官する時に某ホテルでお別れ会があった。壁に何やらチュチュらしきものを来た美少女の甘ったるい複製画(本物には高い値が付いてるんだろうが、まあ、目を遣る値打ちもない屑だ)が掛けてある一室であった。スピーチでマイクを取るなり、先生はその絵を指差してこうのたもうた

——私はこういう代物を撲滅する為に働いてきた。

でさて、先月の若桑先生に続いて言うなら、この先生もこの一言によって私の師であったりするのであった。世の中には撲滅した方がいいものが沢山ある(そもそもさ、綺麗なチュチュ着た美少女を描けば綺麗な絵って発想自体、撲滅した方がいいでしょ——チッチョリーナといかがわしい真似に耽る自分のフィギュアとかを作るアートの人っていたけど、あそこまで行かない限りは許せたもんじゃない)。時々、思い出した時には、非力ながら私もそうしたものの撲滅に努める義務があるとも感じる。ただ当面、私にはそれ以上に撲滅を計らなければならないものがある。それがこうした、適当な枠組みに押し込んでわかったふり、だ。

「‘異国物’」の「サスペンス」! いやはや、この種の分類によって判ったふりをなさろうと言う先生方の読み方はたった一つだ。予め頭の中でこさえたり予測したりした枠組みに作品が忠実であるか否か、予め勝手に了解した物語が展開するかどうか、で作品を是としたり非としたりする。いや、時々ね、1920年の「ロシア」を舞台とした以上は「レーニン」だの「トロツキー」だのがぞろぞろ登場する紋切り型歴史メロドラマが展開されるに違いないと期待して佐藤亜紀を読んで、「革命が活写されていない」とか文句を言う方がおられることは承知してますがね(いやあ、今更ご期待通りに「革命を活写」したら、何かいいことでもあるんですかね——そういう読者の為には「オル窓」第二部がある訳ですし——今や腹抱えて笑うこと必至のケッサクですけど)、まあはっきり言って、そういう批評を読むと、やれやれ、と言うしかないんですわ。公器で恥晒してどうすんの。

「純文学」とか「エンタ」とか「ミス」とか「ファンタ」とか「SF」とか「歴史物」とか「‘異国物’」とか「サスペンス」とか「ロマンス」とか「バイオレンス」とか言う枠組みは、そうした枠組みに忠実に萌える良く飼われた家畜たちと、彼らの期待に応えようという虚しい努力を厭わない、勤勉なプロレフィード生産者のためのものだ。うっかり、綺麗なチュチュ着た可愛いバレリーナを描けば綺麗な絵、以上の場所に出てしまわないためには最良の策だろう(眩さで目が潰れるからね)。どんな権威ある肩書きを纏っていようと、どれほど特権的な場所から出て来ようと、そういうものは「ただの『エンタメ』」であり、精々「ステキな読み物」に過ぎない。それはそれで結構なものだし、私は師匠ほど戦闘的ではないが、とはいえ六十で足を洗う時にはこう言いたいものだと思う。

——私はそういう枠組みを無効化するために書いてきた。

予め存在する枠組みの中に大人しく収まるものは、その枠組みがどれほど特権的なものであろうと、芸術ではありえない。芸術であろうとする試みでさえあり得ない。そうした作品に満足する者は本質的に芸術音痴であり、理解したと称する資格さえ持たない者である。綺麗なチュチュを着た美少女の絵は、そういう意味で、根本から非芸術的であり、小説を枠組みで理解したつもりになるのは、本質的に音痴の姿勢である。

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