業の深いことよのお、と思わず呟きたくなることがある。何と言おうか、強烈に業の深い人というのが時々いて、こういう人たちは別に何事もなくとも強烈な業深さを漂わせている。で時々、期待に違わぬ業深さを発揮して、何しろ薄々感じていたことではあるから別段驚きはしないものの、強烈な違和感を味わわせてくれる。
知人に、年齢を考えれば驚嘆に値する結構な美人がいた。私より大分年上の人だが、お肌の美しさは格別で、それだけで一種不気味なものさえ感じさせた——何と言おうか、皴ひとつ染みひとつなく、脂も浮いていないのに剥き卵と言うにはあまりにぬるぬるした感じの肌で、それだけで何となくひとつ了解できるものがあった——この人の住んでいる世界は私のそれとは全然違う。何と言おうか、ホルモン全開の人にしか見えない世界の様態というやつがあるのだ。私が業と言ったのは、即ちそれだ。世の大多数にとってどうなのかは知らないが、♀であることが衣食足りた上でのオプションではなく生存の根底に来ているような人が、時々いる。たとえば腹が減っている時、私は一個の胃袋に過ぎないが、彼女はそんな時でも女だ。
で、猫を数匹飼って溺愛していて、格別の管理もせずそこらをほっつき歩かせていた。当然、季節にはごろごろ子供を産む。で、仔猫どうするのよ。すると彼女はするっと言ってのけた——産まれた仔猫は黒ビニールのゴミ袋(そういうものがあった頃の話だ)に入れて口を縛り、金槌で叩いた上、ゴミの日に出すことにしている。
何がどう繋がるのか、と疑問に思う方もいるかも知れないが、これは確実に繋がっている。坂東真砂子氏はその点に確信を与えてくれた。偶々の二例、ということかもしれないが、世の中には、自分のところの猫が充実したセックスライフを行うことを大いによしとしながら——或いはだからこそ——仔猫には一切の頓着がなく無残に殺して捨てる女がいる。本質的に無縁で理解不能なものの不気味さをごくわかりやすく言うなら、その女ぶりは既にこの世のものではなく、ぬちゃぬちゃのぐちゃぐちゃのどろどろの何かよく分からないクトゥルー的なものである。
私は私で、自分の世界観をケモノに投影する。ケモノにとって生とは兎も角飯を食うことだ。クジラが大口を開けて鰯をべろんごっくんしているところを見ると思わず、これだよこれ、と頷いてしまう。ケモノにとっての生が乱闘にあると思う方は、鹿が角突き合わせているのを見て、これこそが大自然の掟だ、と叫ぶだろう。ところで女の業の人にとって〈獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか〉(坂東氏の問題の文章の一節)ということになる。結論から言うなら、どれも正しい。そしてどれも間違っている。三人が三人ながら、自分の世界観をケモノに投影して見ているだけであって、ケモノ自身が口を開いたら、その主張は我々には理解できないだろう。ただしこれだけは言える——ナチュラルな状態でのフリーセックスと出産の喜びを享受する為に仔猫の虐殺に同意する母猫はまずいない。仔猫殺しが常態となっていたら、母猫にとってはセックスも出産も全くの無駄手間だ。
問題はケモノのあり方ではなく、人間の選択だ。ケモノに人間の都合で避妊手術をするのは身勝手な選択だが、だからというので仔猫を生まれる端から虐殺するのは滑稽で不気味である。外聞は明らかに後者が悪い。個人的には仔猫たちを助けたいと思うが、その選択をタヒチの赤の他人にまで押し付ける権利がないこともまた確かだ。ただ、ひとつだけ引っ掛かることがある。
ぬちゃぬちゃのぐちゃぐちゃのどろどろの何だかよく分からないクトゥルー的な女の業は、古来より女流文学者の得意技であった。と言うか、それをやっている限りは女流文学者は文壇でかいぐりかいぐりして貰えたものだ。坂東氏の小説の背景にあって独特な色彩を作り出してきたのもそうした全く古典的な文学上の趣向の採用である。とすれば、このぬちゃぬちゃの(以下略)的告白もまた、坂東氏の文学的な趣向の誇示に過ぎないのではないか。そうだとすればこれは、命の重みを何と心得る、ではなく、この上なく醜悪な文学者気取りの発露、我々はみんな業深のポーズに釣られただけ、ということになってしまうのだが。
