「爆音上映」に関する最終的な報告。検索してみると面白いと言われ、「爆音」「上映」で検索してみる。その結果、今までの主張に些かの修正を加えておこうと考える。
何というか、これ、試み自体としては面白いのね。ただもう音にもみくちゃにされるくらい音量を上げて、頭真っ白になった状態で呆然と画面に目を向けている、と。フィルムの<利用方法>としては面白いし、パフォーマンスとしても面白い。確かに「フルメタル・ジャケット」とかでやったらそれなりにいいだろう。耳が丈夫だったら「アンダーグラウンド」をリクエストしたいくらいだ。ただし、映画の音声トラックにライブ並み音量の再生の耐えるほど情報が入っていないのは事実なようだし(やっぱりね、とか言ったら嫌らしい?) 、その状態で映画として「見る」のは相当に困難なことでもあるらしい。まあ、音源も色々な利用法がある昨今、こういうのもありだろうということですね。著作権の問題さえクリアできるなら、映像や音をその場で加工していったりしても面白いんじゃないかしらん。専用の映画を撮ってみるとか。
という訳で引き続き問題は残る訳だ。つまり、猛烈にご機嫌な馬鹿パフォーマンスやります、ではなく「普通の映画館では、映画の重要な表現の一つである音がちゃんと聞こえてこない」とか「大音響に圧倒されるうちに、作者が各画面に仕掛けた一つひとつの音が際立ってきて、音の切れ目が明確に感じられるようになる。一般の映画館やホームシアターでは、これは絶対に体感できない」とか言って、特殊なフィルムの利用法を正当な唯一の観賞法であるかのごとく主張する阿部和重の体質が。どうも自分ではまるで気が付いていないようだが、この人、大変な権威主義的パーソナリティである。それが彼の映画評が全然面白くない理由だし(そこらの映画サークルのOB程度の知識しかない上、自分にはどう見えたかを語るのがよほど怖いらしく、おまけにそれをきちんと説明しようという努力もしない。結果、そこらのブログの、大学卒業以来何本映画を見ても見ていないのと一緒なおやじ愛好家的見解を薄っぺらな知識で正当化するだけで、いつまで経っても「ひっちこっくっ」とか「はりうっどっ」とかしか言えないのだ。「ロード・オヴ・ザ・リング」の時、イライジャ・ウッドの顔の問題に触れていて、一瞬だけ、この人の凄さが判るかも、と期待させたのだが、結局言っただけで素通り。たぶん、偉い人の言っていたネタを持ってきたんだから尊べ、ってことなんだろうね)、ただ「決めつけないでちょうだいっ、そんなんじゃ全然ないんだからっ」とヒステリーを起こすかわりに(実体はただのヒスだけど)「淀長さんならそうは言わなかった」とすがらずにはいられない理由だし、「おれたちのパフォーマンスにケチを付けるな」ではなく「多様性を守れ」になっちゃう訳だし、今回最大の問題(面白、と行ってもいいが)発言
「クラシック至上主義者=ナチ」
と平気で言っちゃう、そう、何と言うかね、無教養、だし、無神経、だし、愚鈍、だし、粗野、だし、その無教養と無神経と愚劣と粗野をひっくるめて呼ぶなら、あまりにも「オメー」だ、とでも言いますか(判らない人、フローベールくらい読もう)。うん、これは冴えた問題提起だな。
阿部和重はオメーである。
何しろオメーだから、「古典」は尊べばいいと思っており(つまり阿部和重の映画評ってのは、常に常に、別のフローベールですけど「アキレウス:俊足の、と付ければホメロスを読んでいると思って貰える」な訳ですよ)、格闘してねじ伏せようという気概がなければどうにもならない、なぞとは想像したこともない。なものだから、見てご覧なさい、あのラングの「スピオーネ」の、単に有難がり、ただどう有難がっていいのか判らなくてご自慢の「はりうっどっ」を炸裂させ(最近のお笑い芸人の一発芸みたいなもんだね)、結局、一番重要なことには触れずじまい。いやそれ、どういうフィルムだったの? 復元版? で、どうだったの? 作家阿部和重は、ラングをどう見るの?
もちろん、オメーにそんなことを期待する奴が一番馬鹿、ではある訳ですが。
ナチに関しては、この人、いっぺん徹底した教育を受けてくるべきだと思う。二十世紀を通過してきた人間、それも一応の知識人(オメーだけど)として、ナチズムの問題を素通りしてきたのがあまりにも見え見えで、いっそ哀れなくらいだ。私生活で使うのは勝手だけどさ、活字になる場所でこうも簡単に「ナチ」ってのは、馬鹿丸出しだよ。
中原昌也氏に関しては、すっかり阿部和重の腰巾着、という印象しか、この対談からは受けないので、放っておいてあげることにしよう。と言うか、取り上げるほどの問題がない。ただし、この腰巾着性がこの人をひどく駄目にしている、という気がして仕方がない。パンクだったんでしょ? だったらラング問題はもっと突っ込まなきゃ駄目じゃない。見倒してぼろぼろにしておれのものにしてやる、くらいの志は欲しいよね(悪いけど、クラシック至上主義者は大抵やっている——パンクは違うのか? 有難いアーティストの有難い作品を有難がるだけか? 有難い作品を有難がる私、って自己権威化の道具に使うだけか?)。ただまあ、某賞の受賞パーティに駆け込むなり、まだスピーチが続いているのに、サンドイッチを一山取ってべろんごっくん、続いては寿司(それもトロだけ攫ってたね)を皿にとって直に大量の醤油を掛け、その皿に直に口を付けてすすり込む、という、猛烈な反逆魂に溢れたパフォーマンスを見せてくれた人が、余裕だの優雅だのを語り出すのを聞くのは結構悲しいことだ。君、まさか、オメー和重に叱られて、寿司というのはこう裏返して、ネタの方にちょっとだけ醤油を付けて食べるものです、ほら、皿も綺麗だし、第一ずっと美味しいだろう、とかいう人に成り下がったんじゃないだろうね? それとも君の言う優雅というのは、皿ではなく偉そうなおじさんの革靴の上にトロを載せ、醤油を直掛けし、這いつくばってすすり込むというところまで進化したのか? それなら大したものだが、私には期待しないでいただきたい。クラシックは蹴倒して楽しみ、寿司はスピーチが終った後で美味しくいただく。そういう意味で、私は猛烈に下品な人間だし、同時に君らが言うところの<ナチ>(いや、たぶんね、俗物って言えばそれで済んだんだよ)でもある。逆よりましだろ?
