「シュールレアリストが『地球はオレンジのように青い』という詩を書いたら科学者は批判しなければならないのか?」
新聞記事と言うのは、洋の東西を問わず、ややあんぽんたんのきらいがある。まして見出しにおいては。掴めばいいという訳だろう、あんまり考えもせずに煽って掛かって、読む側としては、やれやれ、と呟かざるを得ないことがままあるものだ。
今回のお題はTwitterでいただいたものである。学術分野Aが学術分野Bの概念や術語を流用する——その中にはまま恣意的かつ不正確なものがあるのは困ったもんだね、という話について、恣意的でも不正確でもいいじゃないか、お前は言葉狩り(やれやれ、これもまた恣意的かつ不正確な流用だな)をする気か、と反論なさった方が、例のソーカル=ブリックモンの「いちゃもん」にフランスの新聞リベラシオンはこう反論しているぞ、と持ち出してこられたものだ。
おい、記者、お前ほんとにエリュアールの例の詩をちゃんと読んだのか?
まあフランスの記者のことだ、多分学校ではちゃんと読まされたであろう。その辺をまるっとねぐったのは、おそらく最初の一行以外完全に忘れちゃった——どう読むのかも忘れちゃったけど、何をどう書いてもいいって話なら丁度いいじゃん校了だし、とやって、あとは忘れて貰うことをひたすらに祈っているのであろう。どうせ新聞だしな。ところが極東には非常に物覚えがいい方がおられて、こうして持ち出して来られた訳だ。
では以下、そんなもん持ち出して来られても、それ自体がジャーナリズムによる文学表現の恣意的かつ不正確な流用に過ぎないことをご説明しよう。
正確に書くなら、問題の一行はこうだ。
大地は青い、オレンジの実のように
さて、科学者はこの一行を批判すべきなのだろうか? そして、当然ながらこれは反語表現だから、いや、そんなことはない、と書かないと漢文の試験では点を貰えない訳だが、この、いや、そんなことはない、は、他分野からの恣意的かつ不正確な流用を庇い得るのだろうか。
いや、そんなことはない。何せこれ自体恣意的かつ不正確な流用だからね。同じ穴の狢、というやつだ。
件の記者はどうやら、大地が青い——それもオレンジの実のように青いことが非科学的だと考えておられるようだ。この詩に付された年代である1929年は「地球は青かった」の随分と前のことなので、大地が青いのは微妙に由々しき事態である。しかもそれが橙色であるべき筈のオレンジのようにとは、全くもって非科学的ではないか、と。
これが第一のあんぽんたんだ。これは固有色の問題であって、科学とは大して関係がない。おそらく科学者は、夏の大地が緑色であり(まあ、大抵は)オレンジが橙色なのは(熟したやつなら)特殊地球的な光線の戯れの為せる業だとでも言うであろう。条件が変われば確かに大地はオレンジの実のように青いのかもしれない。つまり固有色は科学の問題ではない。一般に我々が有する通念の問題、所謂常識の問題だ。
では、科学というよりむしろ常識は、この一行にいちゃもんを付けなければならないのか。
これは反語ではない。故にそのまま取っていただきたい。いちゃもんは付けなければならない。いちゃもんを付けられなければこの一行は成立しない。むしろ大いに、えっ、青い大地? オレンジの実みたいに青い大地? ねえよそんなの、大体青は橙色じゃないし、と言っていただかなければ困るのだ。故に、次の行はこう続く。
間違いじゃない、言葉は嘘を吐かない。
つまり、記者氏が科学と呼ばれるところの——しかし実際の科学はそこまで偏狭ではないであろうから、一般的な通念による——「批判」は織り込まれているのだ。ふーん青い大地ね、で、オレンジの実みたいに橙色なのね、青=橙なのね、文学の自由は素晴らしいね、それで、と読み飛ばされたら、この一行の持つ衝撃は半分がた失われる。
では何故、このおよそ常識に反した言語表現は「間違いじゃない」のか。何故「言葉は嘘を吐かない」のか。
全く、大した自信である。
大地は青い——そこで、「地球は青かった」以前なら、読み手は軽い眩暈を覚える。青い大地。そして「一個のオレンジのように」と来る。「一個のオレンジ」は、全く常識的に、橙色をしている。この色彩のコントラストは極めて鮮やかだ。「地球は青かった」以後なら、最初の青の衝撃はやや弱まるが、また別の結び付きが生まれてくる——地球の形状の丸さが、青と橙色という眩しいくらいの色調の対立を挟んで、オレンジの実に戻ってくるのだ。或いはそれは既に、大地の豊饒と果実の瑞々しさにおいて現れていたのかもしれない。何しろ、これは大層エロチックな詩でもあるので。
そうした、一般的な固有色の通念には反しながらも、それ故に表現としては正確無比なものとして、この一行はある。表現にも科学とも言うべきものはあり、その科学に照して言うなら、間違いは一箇所もない(ついでに言うと、他分野の無思慮な術語・概念の流用はそもそもない)。言葉は、少なくともここでは、嘘を吐いていない。縁のない方はしばしば舐めてかかる訳だが、他の分野の術語を流用しました、でも間違ってました、見逃してね、てへっ、ではやって行けないのである。思い切り単純化して言うなら、件の記者は最大級の罵倒に値するであろう——文学を舐めんじゃねえ、馬鹿が、見逃してねじゃ済まねえぞ。
まあ、逃げたんだろうけどさ。
ましてあなた、文学を舐めた間違いを、わざわざ、間違えた哲学者その他(およびそれ以下)弁護に適用するのでは、これってもしかして皮肉? とでも言うしかない訳だよ。
付記:「言葉狩り」の恣意的かつ不正確な流用にも気を付けていただきたいものですな。これは「めくら縞」のような伝統的な語や「片手落ち」のような障害とは何の関係もない語、果ては「跛を引く」のような日常的に使われる語を差別的としたり、全くそういう概念のない世界において用いられた畜殺を差す語を日本固有の状況に照して差別的としたり(他にも色々あるけど、私が経験しているのはね)して、メディアから消したりまた消すよう促したり更に消した痕跡を消すことを要求したり、という行為をさすので、「微分的に考える」を、馬鹿? と批判することではないのです。