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あんとに庵氏にお答えして

まあいいか、と思って、十日の日記についての補足をupしないまま消したところに、あんとに庵様がご意見を下さったので、簡単に弁解してみよう——多分、軽くググると当該ブログは出て来ると思う。で、何故私が怒ったのかも理解していただけると思う。以上です。

では多分済まないだろう。なので尚も説明してみよう。

普通、読んで萌えました、では、私は怒らない。稀に一部をマンガやイラストにしてくれる人がいるが、喜びこそすれ怒らない(下手でも怒らないし、巧ければ尚更怒らない)。まだそういう話は聞いた事がないが、801パロとかしてコミケに出す人がいても、多分怒らない——やるなら後でいいから一部持って来てくれると嬉しい。最寄の喫茶店でお会いして、お話を聞きがてら代金をお支払いしよう。もとより著作権は歩留まりで考えているので、うるさいことを言う気はないし、大体昔から、「主題」が「変奏」されるのを見るのは大好きであり、自作でそれが為されるのを見るのは多分楽しい事だろう。

ただし、私は萌えた、と***は萌え作家、の区別が付かない人に対しては、一遍死んで来たら、と言うのを躊躇わない。それが悪意で為された言表であるとすれば尚更だ。

まともな読解のできない読者は読者として扱っても仕方がない。まともな読解のできる読者、というのは、最低限の蓄積を前提に、作者が誰か、に左右されない、作品に即した読解ができる読者であって、当然、自分の脳内に属するものと作品に属するものの区別は付き、故に、私は萌えた、と萌え小説の区別もできる(ちなみに言うと、嫌いな作品と駄目な作品の区別も出来る)。問題のブログの主はその水準に達していない。或いは、嫌がらせのつもりで馬鹿を曝け出しちゃったかだ。

で、さて、表現規制の話は終わったことになっているのだが、相手があんとに庵様とあっては誤解を解くために多少説明させていただく必要もあろう。

まず第一。鑑賞について。作品をきちんと読め、と言うと、必ず作家の言いなりは御免だ、と反論が返って来る。この繰り返しにはうんざりだ。作者は存在しない。作品だけがある。存在しない「作者」が作品の「正しい」読みを独占している事などあり得ない。これは八十年代には既に常識であり、実を言うならデビュー後最初に依頼を受けたエッセイで書いた事でもあった。いかに品下れる世の中とは言え、未だに作家万能の表現論が可能だと(で、佐藤亜紀はそうした表現論を振りかざしていると)と思っている人がいるのは驚きだ。

ただし、作者は架空の存在であるとしても、作品は鑑賞者の前に、客観的に、存在する。作品を鑑賞する奴の大半は、ガイドの後にぞろぞろくっついて、これがミケランジェロの聖家族です、次行きましょう、でウフィッツィを一時間で回るツアー客同然、後で話を聞くと、絵がいっぱいありました、タイトル以外何にも覚えてません、西洋絵画はキリスト教なので嫌ですね、だったりするのだが、それはまあそいつの勝手だ。が、どの作品を見たのか、その作品内ではどのような要素がどう配置されどういう構造を造っているのか、が正確に押さえられていなければ、作品について論じたことにはならない。一点でも狂っていれば、あなたが見たのは別の作品です、で終る。

そしてこの場合、書き手は作品について、何がどこにあるかをおそらくは誰よりも熟知している「鑑賞者」だ。その見解は、作品が発表された後では一鑑賞者の見解の一つに過ぎないが、とは言え、覆そうと思うなら、書き手によって見過ごされた要素、見過ごされた構造、そうしたものを前提とした場合には当然可能になる筈でありながら見過ごされた解釈、を提示し、あなたが論じておられる作品こそ別の作品です、とやらなければならない。それが出来た上での解釈なら、当然、書き手も受け入れなければならないだろう。まあ、出来る奴はいないとは思うがね。

第二。私は基本、表現はアナーキーである、と考えている。あっていい、でも、あり得る、でもなく、事実としてアナーキーである、と。創作において創作を制御するのは作品に内在する要素だけであり、それをアナーキーと言うなら、間違いなくアナーキーだ。こちらも創作指導をした経験から言うなら、作品外から来る制約を取り払い、内在する要素の可能な限りの展開に集中するよう勧める訳で、その時には神も仏もない、自分もない、作品しかない、当然いかなるモラルの紐もない、ということになる。ただそれが外で流通するかどうかはまるで別の問題だ。商業的な理由で蹴られることもあるし、自主検閲でアウトになることも法規制に引っ掛かることもある(そしてまあ、ある種のものが規制されても仕方がない理由、について延々と話をして来た訳だ)。規制を食らったら潜って黙々と続けりゃいいのさ、もしそれが表現ならね。

第三。実を言えば、ああそうか、迂闊だったな、と思った事が一つある。あんとに庵さんが、北斎はエロい、と言う時の意味だ。今回読んでいて、漸く判った。作品の齎す快楽が最大に限りなく近い事を「エロい」と言う。それでは、わたしがエロ表現の天井を指摘してもまるでぴんとは来ないだろう。同じ事を私が言う時には、脳内麻薬物質出まくり、強烈にキてる、完全にぶっ飛んだ、等の用語を使う。エロはその下位概念、どちらかと言えば、子供が可哀想な目に遭う映画なので映画としては糞だけどハンカチ三枚使いました、子供は泣きツボああ快感、に近い限定された概念なので、飴でも舐めてないと歯を噛み砕きかねないくらいキている時には、当然、エロいとは言わない(ちなみに表紙にいただいた絵を見た時にはかなりキました。編集者からひったくって走って帰ろうかと思った)。

萌えはエロの中でもごく緩い、効き目の穏やかなものだ(であればこそ「スクリューボール・コメディ」に言及したのだが、当分、何を書いても誰もまともには読まないんだろうね。頭が冷えたら私が何を言っていたか読み直してくれ。全然関係がない、ってことが飲み込めたら、幾らか有益にも使えるだろう)。エロ回路が作動するような刺激を与えはするが、そのものずばりには至らないまま話を転がしていくのがスクリューボール・コメディであるとすれば、萌えも同一の原理に依拠している(ちなみにシェイクスピアの劇の人物が「萌え」なのは明らかに時代錯誤な誤動作。当時の「データベース」は当然今日と同一ではない。ただし読解に際しては、この誤動作は有効に利用されるだろう)。どちらも、回路が作動すれば、実際の表現がどこで止まろうと、鑑賞者が脳内で、実際に描写されていたなら当然引き起こされるであろう「ずれ」なしの理想的な補完を行う事を前提としている。それをどう利用し、どれだけ強烈な快楽に高めるのか、において、スクリューボール・コメディは確実にひとつの達成ではある訳だ。

ジャンク上等、には通常、ジャンクのジャンク性から一層強烈な快楽を引き出そうという志向がある。スクリューボール・コメディがやったことはまさにそれだ。単純な回路作動を超えた(と言うとまた勘違いする人がいるかもしれないから、メタレベルの、と読んでも可としよう)、回路作動そのものを利用することで生じる更なる快楽があればこそ、スクリューボール・コメディは「ジャンク上等」であるだろう。ちっとは勉強しろ、と言う時、私は、どれだけ強烈な快楽を実現できるか、についてしか語っていない。ジャンクをジャンクと言うのは、それがジャンク上等でさえない、軽い一服に留まるからだ。もっと気持ち良くなる技術、もっと強烈な酩酊/覚醒を作り出し味わう技術を追求する気はないか、という、それだけのことであり、頼むから裁断図がどうなってるかなんて気にもならんような絵を見せてくれ、でなければ調べてまともに書け(歴史衣装も含め、そういう資料は幾らでもあるんだが——そんなの今の絵師さんには絶対に無理、と、ある編集者は言う。いや、そこまで彼らの可能性を否定することはないでしょ、前者にしても、後者にしても。要はぬるくてさぼってるだけですよ)、であり、そんなことではこっちがひっくり返るようなものは絶対描けないね、であり、まあ大体その気がないのか、ぬるいからな、であり、最終的には、死なないまでも病院送りになるか廃人になるか、ってようなものはないのかね、いや、死んでもいいんだけど君らにそれは期待してないから、ということになる。

きれいな絵、愉快な音楽、楽しいお話で満足できない奴は表現ジャンキー、と昔誰かが書いていたが、私はむしろこう聞き返したい——表現に触れてジャンキーにならない奴って使えるの? 

そこから先は消費文化の話、そこで達成可能な深度の話になる訳だが、まあ、書かないかもしれないね。


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