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エロってどんなものかしら

高校生の頃、フランツ・フォン・バイロスの画集が裁判に引っ張り出されたことがある。で、その時、確か編纂者の老文人が言ったのだ——これは猥褻ではなく芸術である、と。この発言は画集を擁護する気満々だった若い野蛮人どもの失笑を買った——猥褻何故悪い、ってとこまで、何で踏み込めないんですかね、今時。

まあ老文人の気持はわかる。そこらの雑なエロ雑誌と一緒くたにするな、というのだろう。野蛮人どもの主張も理解はできる——そうですよ、猥褻なんて無害なもんじゃないですか、「世間様の裏のご意向」を生真面目に体現しているだけなんだから、と言ったら、彼らは怒るだろうが、しかしこれは事実である。

以下は読める人だけが読めばいいよ。

性はそもそも差別的である、とか、性表現はそもそも差別的である、という発言を、ここのところ厭になるほど見てきた。何やらある種の決め台詞だと、発言者は考えているらしい。その度にうんざりした——その邪気のなさに。故に、猥褻何故悪い、は差別的な表現を商業的に流通させて何故悪い、だ、と言われると、更にうんざりした。性表現の自由を勝ち取る為に費やされてきた先人の努力が単なる商業主義に利用され、かくてアナーキーなつもりの商業主義がげっそりするほどコンサバティヴな蹂躙の構造を強化するのに利用されているのにうんざり、という以上に、そうした先人たちの営為でさえ「世間様の裏のご意向」のサーキットをくるくる回る以上のことはほとんどなかったのだ、という現実にうんざりしたのだ。

どれほど表現として衝撃的であろうと、エロはエロだ。とはつまり、全くのサプリメントであって、どれほど前代未聞の、大顰蹙必至のエロ表現だろうと、エロい限りは「世間様の裏の御意向」を崇め奉る完全にコンサバティヴな、社会的なものに過ぎない。「世間様」は表では顔を顰めて見せるだろうが、裏ではその疑うことを知らない敬虔な表現を嘉納する。かくて性表現は、どれほどの禁圧の下であっても袖の下で自在に流通し、今日も世間様は安泰だ。

サドはものの見事なまでにその罠に嵌まっていた。「性を聖から俗に返す」ことの政治的破壊性にsk-44氏は言及していたと思うが、実際にサドが述べているのは(作中の哲学親爺の演説がサドの「思想」だとして)「性をひとつの聖から別の聖に返す」ことだった。そこでは「自然」が「神」に取って代わり、諸々の「悪徳」は「美徳」に代わって、「自然」の嘉したもう善行となる。つまりは裏返しただけであって、当時の性的なタブーを生産性の観点から全肯定して見せた(ただし、同じ原則に立って全くロジカルに、同性愛と肛門性交、および、未だ/最早妊娠可能ではない女性および妊娠可能ではない時期の女性との性交は排除する)『ブーガンヴィル旅行記補遺』のディドロの方が、まだしも徹底的だっただろう。フランス革命以後の世俗化したブルジョワ社会においては、どちらもいかなる政治的破壊力も持たない。そして我々は依然、サドの思想が前触れした聖なる世俗主義における性の円環をぐるぐる回っている。どこまで走ったつもりになろうと、そこにはいかなる解放もない。

ただしサドの性表現は別だ。サドの性交場面は、主たちの間ではいかなる役割の固定もなく、前と後の区別もなく、同性愛と異性愛の区別もなく、故に性の非対称性さえほとんどなく、時としてディドロの蜜蜂の房のように数人の人間がひとつに連なりながらしかもディドロの蜜蜂の絡み合いの官能さえなく、ただ交接する。「上の口」(というのはsk-44氏の用語だが)が沈黙する時、はじめて「下の口」の存在が——ただ「下の口」の存在だけが露呈する、そうした希有なあり方に、サドの性表現は限りなく肉薄する。そうやってなお、「上」にとってはどこまでも異物である「下」の存在自体、関係自体には届かない訳だが。

性の非対称性? 滑稽な話だ。男女を問わぬ交接および交接を伴わない性行為自体には対称性も非対称性も、「上」が口にするような関係性はどこにもない。そもそも「上」でいうところの意味さえなく(呼吸や消化に本来何の意味もないように)、故にエロくもない——エロはあくまで「上」のものであり、そしてそこには例の「世間様の裏のご意向」が鎮座ましましている。非対称性が認識されるのは「上」においてであり、特定の趣向が殊更に好まれるのも「上」においてであり、「プレイ」が成立するのも「上」においてであり、単なる性の行為が美徳になったり悪徳になったり侵犯になったり解放になったりするのも「上」においてであり、そしてその全ては、サドが悪徳と美徳をただ交換するのに使ったレトリックを流用するなら、全くの「偏見」——「世間様」の支配を「下」に及ぼすための装置に過ぎない。そうした装置を介して、「下」は「世間様」の秩序に組み込まれ、そこで漸く認識可能、表現可能なものになる。

性表現、という奴に私が信を置かない理由はそこにある。そそるものであればあるほど「偏見」という装置の動作をただ繰り返しているだけだからであり、どれほどおどろおどろしかろうと「下」の渾沌に目鼻を穿ち、死んだものとして提示するだけだからだ。故に、どう性を表現しようと、その根本的な無意味自体は表現から逃れ、我々が「世間様」から解き放たれた剥き出しの性を目にすることもない。仮に「下」をそのまま掴み出した表現があったとしたら、それは既に性表現ではないだろう。

だから例の老文人は、文句なしに、正しい。性表現は表現としての是非をその芸術性によって評価されるしかない。さもなければその政治性によって個別利害に照らして評価されるしかない。それ以外の評価はどれも、どのような位相によってどれだけ「世間様」に従順か、でしかない(抜ける、とは即ちそういうことだ)。虚しいことではいずれも同じだが。猥褻何が悪い、による性表現の解放は、結局商業による性差別構造にただ乗りしたポルノグラフィの垂れ流しにしか繋がらなかった。とはつまり「世間様」の支配が強化されただけだ。

p.s.やれやれ、読めない癖に読んじゃったの? お互いの時間の無駄だから、そういうことはやめようよ。

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