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劣悪な鑑賞者——トラックバックにお答えして I.

トラックバックまでいただいたので、そこを足掛かりに、例の「劣悪な鑑賞者」の問題をより詳しく論じてみよう——一口で言ってしまうなら、事はそれほど単純ではない。

まず問題になってくるのは理解度だ。

この問題を持ち出すと、必ずと言っていいほど、鑑賞者は創作者の意図通りに作品を読み解かなければならないのか、という反論が出てくる。今回トラックバックを下さった方もその一人だ。これに対しては、こちらから一つ疑問を呈しておこう——作品を正確に理解するとは、創作者の意図通りに理解することなのか。

もちろん違う。何故なら、鑑賞者の前にあるのはただ作品だけであるからだ。その段階では創作者が何を言ったとしても、作品に加えられた多くのコメントのひとつに過ぎない。作品を前にして創作者の意図を汲むなどという試みは全くのナンセンスだ。

ただし、作品の同一性は厳然として存在する。鑑賞者Aと鑑賞者Bの前にある作品が同じ作品であるとすれば、どのような要素がどう組み立てられて作品を形成しているか、は一致している筈だ。その限りにおいては、正解は確実に存在する。

美術史学における「イコノロジー」という方法論を例に説明してみよう。段取りを簡単に言ってしまえばこうなる。

1. ディスクリプション
画面に描かれているものを逐一挙げて行く。色彩・形状・配置についても忘れてはならない。ただし、何が描かれているのか、については次の段階まで注意深く保留しておくこと。

この段階においては正解と言うものが確実に存在することはお判りだろう。同一の作品について論じる以上、挙げられる要素及び要素間の関係は同一である。たとえばある人物の着衣の色を、Aが赤、Bが青と言ったとしたら、どちらかが(或いは両方が)間違えている。

2. 判断
ディスクリプションにおいて挙げられた要素を、作品に対して適用可能な文化的文脈に照らし合わせ、保留しておいた「何が描かれているのか」を判断する。

それだけ? と言われるかもしれないが、これだけで論文が書ける。今時は大抵の作品について、既にそうした判断が加えられ、覆るべきものは覆った後だろうが、ほとんど常識と化していた題材が実は全然別物だったと判明したり、作品の意味するところがまるで違ったり、ということが明らかになることもある。特にルネサンス美術については、その意味付けを一新させた方法論だったと言えるだろう。

この段階には、1.のような正解は必ずしもある訳ではない。だが、複数のエキスパートの見解が難なく一致する妥当な解答と、どう見ても無理筋の解答の相違は存在する。

p.s. 某所で疑問が出ていたので一言付け加えておくなら、この判断とは、この赤毛で黄色い服を着た男は何者か、生首を持った美女はサロメかユディトか、ベルを鳴らしているのは郵便配達夫か憲兵か、という種類の判断——つまりこの絵は何を描いているのか、の判断である。

3. 解釈
さてその上で、この作品をどう解釈すべきか、が来る。イコノロジーの適用によって、ルネサンス絵画の多くが秘教的文脈の上に描かれていたことが明らかになり、ルネサンスのイメージを一変させたのは随分と前のことだ。今日ではフェミニズム的解釈やポスト・コロニアリズム的解釈が加えられている(ちなみに『ダ・ヴィンチ・コード』で、私は映画の方しか見ていないが、トム・ハンクス教授が講演会で披瀝しているのはこうした方法論だ。「最後の晩餐」の方に適用されているのも、禁じ手多出かつ明らかな当時の文脈への理解不足はあるものの、この応用である)。

この段階に至ると、論者による見解の相違が多出することは当然予想されるだろう。唯一の正解は存在しない。

さて、何故ここでイコノロジーなのか、と言えば、これが、一枚の絵を前にして普段我々が惰性で駆け抜ける過程を分割・点検し、見落としはないかを考える方法論だからである。実際、従来の常識的な解釈に、惰性に任せた見落としによる不正確な判断が多々あったことが、この方法論によって明らかになった。

多くの、プロパーではない論者による美術作品のフェミ読み・ポスコロ読みがあまりに不正確かつ独断的で到底評価できるものではないないのも、実際には1.と2.の段階での錯誤・不正確が原因だ。

手を抜いているのか? それともスキルが低いのか?

おそらくは感覚的な側面においても、同様のアプローチを取ることは可能だろう。ある人物の表情が、何故これほど心に触れるのか。別な人物の姿が、何故これほど不吉に感じられるのか。ある色彩が強烈に目を引くのは何故か。ある線が奇妙に心を揺さぶるのは何故なのか。通常我々はそれを一気に感じとるが、実際には同様の過程を踏まえた判断と解釈が存在している。右上がりの線と右下がりの線が全く別のものと感じられるのは、現象としての線が認識と判断を経て解釈されているからだ。

イコノロジーは専ら、一枚の絵画における意味のネットワークを明らかにする方法論だったが、そこには同様に、物語の、感情表現の、構図の、線の、色彩の、マチエールのネットワークが存在している。そしてそれぞれのネットワークは他のネットワークと結び合い、支え合うことで一枚の絵画を形成している。たとえば色彩は、意味のネットワークの上で特定の機能を担うと同時に、色彩固有のネットワークの上での機能をも果たしているだろう。どちらを見落としても、作品の把握としては不完全になる。

映画には更に、映っているものの動きのネットワークがある。画面の衝撃と減衰が造り出すネットワークもある。カットとカットが繋ぎ遭わされることで生まれるネットワークもある。我々が一本の映画を見る時、処理している情報の量は膨大だ。ただし、それを我々が感じ取り、判断し、解釈を加えていることもまた事実であり、その処理過程における速度と精確さの相違が厳然として存在することも、また事実である。

理解度、というものが間違いなく存在することは、これでお解りいただけただろうか。
質問、反論等がおありの方は monk@zag.att.ne.jpまで。

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Notifié: 2008.08.16 23:24

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