2009.07.10

macbook airの続きである。

macbook airにはusbポートがひとつしかない。itunesの曲を外付HDDに入れてある場合、これではiPodともiPhoneとも同期できないので、当然ハブを繋ぐことになる。ところが普通のhab(バスパワー、と言うらしい)を繋いで、そこにポータブルHDDをぶら下げても動かない。電圧が不足なのである。なもので電源を繋ぐハブ(セルフパワー、と言うらしい)を繋いでみたが、やっぱ非力らしく駄目である。

で、色々調べてみたんだが、今ひとつうまい解決法はないことになっている。だが、HDD自体が電源に繋いであれば無問題ではないのか。

とはいえ今日日、ポータブルHDDに電源を繋ぐ場所はない。ではどうするのかというと——コンピューターから来るUSBケーブルと専用ACアダプターから来るケーブルを合流させて、ポータブルHDDのUSB口に突っ込む、というやつがあるんですな。試しに使ってみたところ、バスパワーのハブでもちゃんと動きました。ご参考まで。

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mixiで、web上の伊藤計劃氏の作品目録を作った方から連絡をいただいた。で漸く、「フォックスの葬送」も007物の漫画も堪能できたのであった。 G.O. 様、多謝。

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2009.07.07

伊藤計劃氏が2007年冬発行の蛮族同人誌「バルバロイ」に掲載した短編「セカイ、蛮族、ぼく。」がここで読める。傑作。いきなり「グラディエーター」に接続しちゃうところがまた何とも。

たぶん、こういう短編がまだあるのだろう。伊藤氏の映画評、エッセイ、絵画もそうだが、誰か纏めて出版するところはないものか。

ところで、ここ数日何をしていたかというと、ついに我慢できなくなって買ってしまったMacBook Airと戯れていたのであった。複数台併用運行体制に疲れたので、これ一本に絞ろうと思ったのである(尤も、ステレオに繋ぐためにMac Miniを購入する可能性はある訳だが)。USBポートがひとつしかない、とか、SSDが128GしかないんでiTunes用ディスクは外付け、とか、色々問題はある訳だが、何と言おうか、往年のブガティ mac以来の官能的な機械で、基本的には満足している。ハンドバックにだって入る——底が抜ける心配も持ち手がちぎれる心配もなく。で、USBハブを買うついでに、ちっちゃなラジオ・チューナーも買ったのだが、これがまた優れものであった。留守録までできちゃうんだよ。朝のバロック音楽の時間も夕方の「ベスト・オヴ・クラシック」も、これでいつでも聞ける訳だ。特に「ベスト・オヴ・クラシック」は夕飯時に重なるんで、結構ご無沙汰だったんだよ。

apple losslessで録音したものは生FMよりやや音がぼやける訳だが、それでも聞いて聞けないことはない。いやあ、ラジオっていいよ、ほんと。

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2009.07.06

伊藤計劃「ハーモニー」星雲賞受賞。

ってか、お前ら遅過ぎ。鈍過ぎ。

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sk-44@地を這う難破船様

表現としての可能性と規制の問題は当然、別です。故に別項を立てました。どれほど芸術的に高い達成であっても、現実の問題として、規制は為されることがあるのはご存知の通りです。歴史的に為されてきた規制を、傑作も規制されたという事実から愚昧と看做すのは通例ですが、規制の対象を芸術性において区別しない、という立場を取る場合には矛盾を来します。性表現というカテゴリーに括れば、大谷崎と暴行AVに区別はありません。従って、これは猥褻ではなく芸術だ、という主張は、表現自体に即して言うならこれ以上正しいものはないとしても、現実においては無力です——裁判官のスノビズムに媚びるのが作戦として有効という可能性は否めないとしても。猥褻表現として出発しながら「ずらし」を重ねて猥褻性自体を脱臼させ、以て政治的に妙に正しい、所謂PCなところに行き着くことも、当然、あるでしょう。表現自体として言うなら、これは肯定的に評価されるべきです。ただし、だからといって規制の対象外になるとは考えにくい——芸術性において貴賎を問わないとするなら、政治性においても当然、貴賎は問うてはならない。結果、猥褻何故悪い、以外に、規制に抗して性表現を全肯定する有効なロジックは存在しなかった。とはつまり、表象の読解を放棄しなければ、「自由主義」(という言葉を聞くとつい冷戦時代の「自由主義陣営」の夜郎自大な自己肯定を思い出してしまうのですが)的な性表現の全肯定は不可能だったということでもある。ただし、そうした全肯定は、差別的な性表現の商業主義的な垂れ流しに行き着いた。これが今日の状況です。

書斎の緞帳の下にエロ絵を隠して同好の士とのみ分かち合うこと、袖の下で、或は外套の下で売り買いされる猥褻文書を読んだ者同士が、その凄さ駄目さをひっそりと評価し合い、読者を広げていくこと。どんな規制の下でも猥褻表現はそのようにして読み解かれ、取捨選択され——表象として丹念に読解されて、生き残って来た。猥褻ではなく芸術だ、が意味を持つのはそういう場においてです。今日でもそうした形で読み解かれることを期待して所謂「地下」で発表する表現者はいる。所謂「規制」の対象となるとも思えないにも拘らずそうした方法を選ぶのは、商業主義的な形で「消費」されることを拒むから——猥褻何故悪い、という野蛮な今日性が、表象の読解とはほど遠いところにあるからでしょう。そういうものが、幾らかの時差を経て輸入された時に、革命的な性表現として、スノビッシュに鑑賞される。別項で論じたのは、それが本当にそうなのか——性表現はどのくらい革命的でありうるのか、その射程と深度はどのくらいのものでありうるのか、であり、その点について私が懐疑的であることは、sk-44氏はお読み下さったので、理解しておられるでしょう。ただしそれは、規制論とは直接には関係がない——性表現が何かを解放するという幻想に冷や水をぶっかけておこうと考えたのは事実ですが、だから規制可、と言えるとは、私は考えていません。このこともまた御理解いただければ幸いです。規制論において問題になるのは、性表現を「解放」するために——表現を現実の力学の世界で流通させるために(純粋な意味での解放は、表現自体においては概ねいつでも可能です)用いられた、猥褻何故悪い、という、それだけなら全く無害なロジックが何故、性差別的表現の商業主義的垂れ流しを招いてしまったのか、です。

sk-44氏は陵辱ゲームを「退廃的」とされた。ある表現が退廃的であるからという理由で規制するのは間違いである——それは常識でしょう。陵辱ゲームを「退廃的」とすれば、本来は性の多様なあり方のひとつであるのに「世間様」から一方的に是非を決めつけられ迫害されるもの、ということになる。これは陵辱ゲームを擁護する方に共通するロジックです。「健全」で「社会的」なら規制される理由がない、も同様です。「世間様」が個人の性的な嗜好を一方的に裁いてるぞ、官憲横暴、とでも言いますか。実態として言うなら、陵辱への嗜好はリアルにおいてであろうとゲームとしてであろうと、完全に個人的なものでは必ずしもない。この社会は暗黙の掟として強姦を肯定している——そのねじれを、「懲罰としての去勢」では指摘なさっていたと理解していますが、もしその通りだとするなら、強姦と陵辱ゲームの間に「懸隔」などあろう筈もない——同一の掟に従っている、という点では。

さて問題は、猥褻何が悪い、が何故、差別的表現の商業主義的垂れ流しに行き着いたか、です。性は本質的に差別的だから、では十分な説明にはなりません。人間が認識し表現できる範囲において性は差別的だから、でもまだ不十分です。本質的に意味を欠いた身体的な快楽が意味を与えられ認識可能になる過程で、性は差別的なものになる。その過程を意識しない限り、思考としても表現としても多くは望めない。おっしゃるところの「上の口」の汚染であり、それを前提としなければ、社会思想としても意味のある議論ができるとは、私は思いません。性を性として認知する段階で、我々は「世間様の裏のご意向」を切除不能なものとして組み込んでいる。となれば、性の全肯定が暗黙の掟の全肯定になるのはむしろ避けがたい。これは売買春やそれに伴う人身売買の問題にも適用され得るものでしょう。我々の社会にあっては、批判的思考を伴わない限り——もしかすると伴ってなお——性は抑圧と収奪の機械として動いている。

表現を通して性を俗へと返すことは、従って、不可能です。俗へと返す、という行為そのものが、性と「聖」の結び付きを一層深めてしまう。ここ半世紀間における性の解放はそうした結果しか生んで来なかったとしか、私には思えない。スカトロやSMや乱交がよいご趣味になろうと、身体改造がお洒落になろうと、ロリコンがカジュアルに消費されようと、何が根本的に変わる訳でもない。或いは、聖と俗はそもそもひとつながりのものであるのかもしれず、故にどう俗へと返そうと性はある聖を戴く制度から別の聖を戴く制度へと譲り渡されるだけなのでしょう。ポルノグラフィの規制でこの問題が解決されることはありませんが、解禁で解決されることもまたなく、性の多様性は、「世間様の裏のご意向」に予め書き込まれています。故に、性の自由と多様性を無批判に讃える限り、全ては依然「世間様」の掌の上です。

では性において個人の領域はないのか、自由意思は存在しないのか、と言えば、汚染の自覚のないところには存在しない、と答えるしかないでしょう。「世間様の裏のご意向」の操り人形であることを自覚したところで初めて、表現は自由の領域の拡大を手探りすることになる。表現の享受にしても同じことです。「世間様の裏のご意向」に盲目的に服従して、表における差別的構造にただ乗りした蹂躙の表現——表現自体に加えてその商業的流通が更に蹂躙として機能するという、二重の蹂躙の表現を垂れ流す権利を主張する限りにおいては、「表現の自由」の主張はあまりに弱い——蹂躙されるのは御免だ、という、純然たる自己保存本能に基いた声や、そうした主張を正義だと感じる声とぶつかる時に、性のそもそものあり方に目を瞑って完全な自由意思の産物として規定し、聖域化した、そもそものはじめからのフィクションに基く「表現の自由」では論として弱すぎる。現実の性犯罪と同一の掟に盲目的に服従している限り、虚構だから無害、さえ成り立ちません。

自由意思はもちろん虚構です——基本的人権が本能から来る虚構であるのと同じくらい、人格の一貫性が虚構であるのと同じくらい虚構です。ただし内奥にまで及ぶ「世間様」の支配を意識し、迷いながらも制御しようと努力する人間からなる「自由な社会」を成り立たせるには必要不可欠な虚構です。迷いながら努めることなしに自由意思は存在しない。そうした自由意思に基く「にも拘らず強姦で抜かせろ」なら、或いは「表現の自由」の主張として成り立つかもしれないし、「蹂躙からの自由」と折り合いを付ける方法はあるかもしれない。これは今のところあくまで、かもしれない、ではある訳ですが。現実には、自由意思は「自由な社会」同様、僅かずつでも躙り寄るべき目標です。これは「自由意思」なる語の起源からもそう遠くはない筈です。

現実の社会は「自由な社会」からはほど遠い——これはお互い何度となく確認したところです。人権という虚構さえ、十分に理解され受け入れられているとは言いがたい。そうした現状において、例えば公共圏における討議で陵辱ゲームを検討することは、マイノリティ叩きを経て「表現の自由万歳、お前らは黙ってろ」に至る可能性が大きい。表象の読解もまた同じです。かくも「世間様の裏のご意向」が浸透した状況においては、性の認知が、表現が、表現物の商業的流通が「浸透」を強化する方向に働くのと同様、言論も、読解も、同じ方向に働く。そうした意味では、社会思想として抽象的な人間の抽象的な自由意思の蹂躙を問題とする場さえ、現実の力学を逃れることはできない。

現在webは、様々なノイズを孕みながらも、最も言論と言論のつき合わせによる対象の批判検討が可能な場です。未熟ながらも最も「公共圏」に近い場、と言ってもいい。そうした場においてさえ、性犯罪被害者の陵辱ゲーム批判にセカンドレイプ同然のコメントが加えられる。DQNはどこにでもいるでしょうし、それが擁護派の全てではないことを願ってはいますが、とすれば何故、そうしたコメントに対して擁護派は批判のコメントを加えないのか。残念ながら沈黙は同意と取らざるを得ない。結局これは、対抗言論による批判がまともに機能しないことを示唆しているように思います。仮に規制賛成・消極賛成派の女性が件のゲームを表象として読み解き(問題のゲームの版元が素早く逃げてしまったがために、現実には、残っているゲーム紹介ページや攻略サイトの図や文や、十八歳以上ですかYesをクリックしてダウンロードできる他のゲームを参照せざるを得ない状況ですが)、差別性の有無を論じたとしたら、どういうことが起こるかは火を見るより明らかでしょう。対抗言論も、表象の読解も、「汚染」が自覚されない状況においては機能しない——機能させるためには言論による介入(DQNは黙ってろ、で十分です)が必要でしょうが、そういう介入はほとんど行われていない。

「表現の自由」と「蹂躙からの自由」は千日手です。故に、この場合はどうするのが妥当か、以外の暫定的な結論以外は出るべくもない——結論を固定する「正義」はこうした場合、必ずしも望ましくはないでしょう。従ってそうした暫定的な結論が依って立つロジックは、個別利害と個別利害の対立を、諸般の事情を考慮しつつ、どう調停するか、でしかあり得ない。個別利害を考慮しない思想的結論(これが所謂「無知のヴェール」の下で追求されるものですが)をそのまま現実に適用することは可能か、ということは措くとしても。商業的流通が問題となっている場合には、当然、法の出番となる。ただしこの国の「自由な社会」への遠さを考慮した場合には、法を引っ張りだすのは非常に危険である——G8中児童ポルノの単純所持を禁止していないのはロシアと日本だけ、という現実は、一般に理解されているのとは逆の意味で理解されるべきでしょう。ロシア同様この国では、単純所持の禁止などどう使われるか知れたものではないことを歴史的事例が語っているから——故に、法によらない流通の規制、というのが、sk-44氏と私の一致した点であり、その点は変わっておりません(つまり法規制には原則賛成ではあるが、特殊事情を考慮してこの場合は避け、代替措置を支持するということです)。ただし、法によらない規制が法治国家において望ましい事であるのかどうかには、私は依然、多少の疑問を抱いていますが。


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2009.07.01

で、そうこうやっている間に今年も北海道から白アスパラを取寄せて1kg一気食いした訳だが(いや、実際にやってみるとおわかりでしょうが、皮も剥くんで大した量ではありません)——何と言おうか、悲しかった。年々入手しやすくなっていくのは結構だが、それにつれてどんどん缶詰の白アスパラ化していくのは何故だ? 

大体、パッケージに入っているゆで方のレシピが、いつもいつも、呆然自失するようなものなのであった。まあこれ、取寄せる先によって違う訳だが、そのことごとくが犯罪的に間違えている。たとえば、皮ごと食べられるようになるまで茹でる、とあったりすれば、これは当然間違いだ。グリーンアスパラと違って、白アスパラの皮は固く、中身は柔らかい。その皮が食べられるくらい柔らかかったら中はぐちゃぐちゃだ。皮のまま湯がいたら火を落し、灰汁が抜けるまでそのまま置く、の場合、物は缶詰そっくりに仕上る。今回は最初から皮を剥いて茹でる、であった。どの場合も間違いは共通している——それをやると白アスパラの白アスパラたる所以、即ち思わず舌なめずりしたくなるような旨味、が完全に抜けてしまう。つまり、このレシピを書いた奴は誰一人として白アスパラが好きではなく、故に白アスパラが白アスパラでなくなるよう、一生懸命努力しているのである。

添付の調理法がこうでは、栽培法に期待するのは無理と言うものだ。春先の市場で買ってがつがつ食うのと同じやり方で、即ち、そのまま湯がいて、水にとって、皮を剥いて、バターと塩と半熟卵で食べてみたが——茹でている段階から不吉ではあったんだよね、だって全然アスパラらしい匂いがしてこないから。で、食べてみたらやっぱり味がしない。茹で加減は完璧な筈なのに、全然味がしない。なんだこりゃ。

つまりお百姓さんたちは白アスパラが白アスパラでなくなるよう懸命に努力していると、そういう話なのであった。癖がないよう、えぐみがないよう、あっさりさっぱり水々しく。まあ、大変な努力だとは思う——自分たちには旨くも何ともないものを、何とか不味くなく仕上げようと懸命に努力しているのだから。

正直を言うなら、十年くらい前に取寄せたサイズまちまちの泥付き白アスパラの方が全然旨かった。と言おうか、値段の問題さえ別にすれば(ちなみに北海道直送は当時でもキロ四千円、参考までに記すなら、ヨーロッパでのキロ最安値は五ユーロ、最高値は二十ユーロである)、むこうで食べるのと変わらない旨さだった。以来十年掛けて、栽培者たちはひたすらアスパラを日本的に洗練してきた——私に言わせれば駄目にしてきたという訳だ。申し訳ないが、来年からはむこうでアスパラ三昧することにする。値段が倍近くて味がこれじゃ報われないもの。

それにしてもアスパラだけの話じゃないからね。果物も、野菜も、この国の食べ物はどんどん味がしなくなっている。まあここまで味がしなくなると、しっかりした味のある野菜が普通に手に入る国に移住しようかという気にもなってくる。食物の趣味がまるで合わないんじゃ、どれほど堅固な愛国心も三月と持たないわな。

まあ、胡麻和えか何かにして食する分には向いてると思いますが。


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2009.06.30

sk-44@地を這う難破船様

些かの誤解があるようです。

凌辱表現が退廃的なものだとは、私は欠片ほども考えておりません。むしろ健全そのものであり、この上なく社会的です——某大某サークルの追い出し輪姦の伝統が健全そのものでこの上なく社会的であるように(山あらば登るように酔女あらばこれを犯す、でしたか)。彼らが教員になって学童生徒を指導することほど、この社会において健全で社会的なことはない。ここで論じていたのは、そうした健全さ、社会性の高さ、が犠牲にしているもの、であった筈です。sk-44氏の論の出発点も、凌辱表現がよって立つそうした健全さ、社会性の高さの差別性であったと私は認識していますし、「自由な社会」において認められるであろう表現の自由を建前に、凌辱表現によって蹂躙される者の声を圧殺することは、「自由な社会」という理念型の信頼性を揺るがし、仰るところの「スターリニズム」への希求を広げる可能性があるので望ましくない、という点で、見解は一致していた筈です。凌辱表現は退廃的だから規制可、などという間の抜けた話は、一度もしたことがありません。せめて退廃的ならまだ良かったのに。

また、非合法化を求めるのはこのケースでは拙い、という点でも、見解は一致している筈です——この国の官憲は糞だから、という、非常に例外的な、厭になるほど現実の力学を踏まえた理由から。社会思想としてなら、当然、そういう場合の国家権力による介入と調停はあり得るでしょう。ただ、現実としてこの国はそれが可能な国ではない。社会思想は現実を踏まえた場合、修正を余儀なくされる訳です。そこでの一致点は暫定的措置としてのゾーニング強化であった筈です。

この話が最終的には千日手であることは既に自明でしょう。「自由な社会」を目指すべきだという点では一致していても、「表現の自由」を優先するのか、そうした自由の濫用によって蹂躙される人権を優先するのか、は依然議論の対象であり、社会思想としても、どちらもが納得する結論は出ていない。仰る通り、理念としての「自由な社会」は未だ完全なものではなく、更に議論を重ねる必要のあるものです——それこそ、百年でも。一方で表現規制は今、ここでの問題であり、更に厄介なことには、双方それぞれに抱える個別利害がある。故に、この問題は理念の問題ではなく、一貫して、現実の問題です。「表現の自由」を訴える側にとって、蹂躙される者の人権は優先順位が低い。「蹂躙からの自由」を求める者にとって、「表現の自由」は優先度が低い。そして「自由な社会」が、抽象的ないかなる特性も持たない「人間」からなるものではない以上、誰に対しても個別利害を放棄して議論をするようにと求めることはできない。この問題に関して抽象的な「社会思想」は前提ではあるでしょうが、前提でしかありません(こんな問題を「無知のヴェール」を被って決めるのはどちらもお断りでしょう)。その上でどうこの問題に適用するか、どこで「表現の自由」と「蹂躙からの自由」の折り合いが付けられるか、が、考察されなければならない。

シニカルな戦術指南などではありません。現実の問題として、私は表現の自由を求めるべき立場にあります。同時に、蹂躙からの自由を求める側でもあります。今回擁護されるべき「表現」は審美的見地から言うならあまり擁護したくないものではある訳ですが(性に限らず、表現に対するこちらの要求が一般的な基準からすれば少々気難しすぎるものであることは知っています)、それでも擁護出来るものなら擁護はしたい——こちらの「蹂躙からの自由」と折り合いが付くなら。何故それが「蹂躙」であるのかさえ理解できない人々に求めても無駄でしょうが(何しろ「蹂躙」ではないことの証明を求めて、強姦が罪とされるのは特殊西欧的偏見である、とか言い始める始末ですから——言っとくけど、「夜這い」は強姦ではないよ。余所者がそんな了見でやらかしたらどんな目に遇うことやら)、それでも、万が一、何かの可能性はないとも限らない。また、表現規制は明日は我が身どころか、常に現実の問題として目の前にぶら下がっている——ゲーム製作者からぬるいといって笑われるような業界にあっても。この際は避けた方がいいとした法規制は数ある規制のうち最もわかりのいい、可視化された、相手にしやすいもののひとつにすぎない。そして法規制などなしに行なわれる、個別の、おそらくは誰の目にも触れることがない、故に誰も「表現の自由を守れ」とは声を上げない規制の可能性に常に曝されている身としては、その場合どう表現を流通させるか、は常に検討しておくべき事柄のひとつでもあるからです。

いずれにしても、事は社会思想ではなく、現実の力学です——理論的には正しい判断を、変えるべきところは変えつつ、かつ基本は守りつつ、現状にどう適用し動かして行くかの問題です。

p.s.今回の議論を踏まえて最初のエントリーのリライトを、というご要望があったので読み返してみたが——ふむ、何も変わらんな、この国の官憲はまじで糞、ってこと以外は。でなければ介入が妥当、いっぺん規制されて潜ってこい、それが本来妥当な場所だ、という基本は変わっていない。ちなみに、sk-44氏も誤解されているようだが、この世から消えうせろとは一度も書いていないし、そもそも消えうせるものだとも思っていない——世の中にはもっと別の場所もあると言っているだけだ。せめてマリファナくらいに潜れば、マリファナで検挙のニュースを見た時と同様、おばさん丸出しの裏声でこう言ってあげられるだろう——んまあ、ゲームくらいで、ねえ。ちなみに私はマリファナ解禁論者だ。

もっともこの件を論じる界隈の無政府主義ぶりにはびっくりした——官憲が糞ってとこが問題なら、表現の自由を云々する前に、官憲が糞でしかないお国は潰すべし、と言うのが筋だろ。国家を二重化してどうするよ。

糞なお国がその気になったら表現の自由なぞ糞の役にも立たんぞ。裏も表もない市民でいたければやめろ。続けたければ取りあえず潜れ。私もそのうち潜る。


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2009.06.23

sk-44@地を這う難破船様

あまりにも見通しの良すぎる整理はおそらく好ましいものではないだろうと思いますが、概ね、以下の点において、こちらとの見解は一致していると思います。

まず、凌辱ゲームの現状のあり方が、古典的自由主義を前提とした場合には人権侵害と見做されないとしても、差別的な構造にただ乗りする形で社会の成員の一部を蹂躙するものとして機能している事実は無視し難いこと。故に、現状の維持を求めて「表現の自由」を主張することは「蹂躙の自由」を主張するに等しいこと。

近代が獲得してきた諸価値を前提とする「自由な社会」も完璧なものではなく、そうした社会の前提のひとつである「表現の自由」は「蹂躙の自由」を含む可能性があること。故に「自由な社会」を目指す場合にも、表現が何を「蹂躙」しているのかは常に吟味されるべきこと。現状の社会においてはまして、表現が何を意味しどう機能しているのか——現に行なわれている「蹂躙」を覆い隠す目隠しとして機能していないかどうか、を吟味する必要があること。

未だ達成されざる「自由な社会」においても——現状ではまして——存在する矛盾ないし「穴」を無頓着に放置するのは危険であること。「蹂躙の自由」への不満が高まった場合には、「自由な社会」への不信と別の社会システムへの希求を招きかねないこと。そうした社会システムが内心の自由の制約を課してくる危険があること。

従って現状においてはゾーニングの厳格化が、飽くまで暫定的な、解決法であること。つまり手っ取り早い「蹂躙」の除去と手っ取り早い「蹂躙の自由」との間でバランスを取って、かつおよそ「自由な社会」とは縁もゆかりもない国家の介入を避ける当面の解決法であること。

とは言え国家の介入は——法規制は、おそらくは、為されてしまうであろうこと。


*   *   *


政治的選択とは、市民の場合であっても、常に「手っ取り早い」「暫定的な」ものであり、かつ、数ある悪手の中のまだましな解を選ぶことでもあります。全てが丸く収まる理想的な解決法があったら、その方が怪しい。手っ取り早く、暫定的で、まだましなだけ、であることがむしろ望ましいとも言えます——不満を残した状態からなら、いずれ動かすこともできる。猥褻絡みで言うなら、恥毛や性器の表現規制が随分と緩和されたように(そして結局のところ、ぼかしが目障りではなくなった、という以上の意味はないように思いますが)。

法規制は、多分、されてしまうでしょう。二次元児童ポルノまで及ぶ可能性も大です。何と言っても絡む利益が大きすぎる。これだけ通信と流通が国境を越えるようになった上は、国家間の大きすぎる扱いの落差が放置されるとも思えない(暫くは、ある種の「ヘヴン」が残る可能性もありますが、所謂先進国ではないでしょう)。にも拘らず規制に反対すると言うなら、規制賛成層や消極賛成層を取り込む必要があります——とは「表現の自由」を主張しても「蹂躙の自由」は主張しない、ということであり、つまりは、凌辱表現の流通が誰かを脅かし傷付けていることを認め、その上で、「表現の自由」によって保護されるべきだと、誰でも納得出来る理由を考えなければならない——ただし、自分たちは先天的な障害者であるというような笑止千万な主張や、凌辱で抜けなければ性犯罪に走るぞと言うような滑稽な脅しは自分で自分の首を絞めるだけです——ということになります。凌辱表現は糞だがそれでも表現の自由として守る、と言う、奇特な女性は非常に少ない。ネットで嫌悪を示している女性は敵ではなく、味方にすべき人間です。DQNはそれこそ内輪で締めておくべきでしょう。デモをするなら普通のデモくらいに女性が入っている状況を作る、ということです。表現の自由がお題目なら当然でしょう。

それでも、規制を避けることは非常に難しい。何しろ、あまりにも常識に反するものを守っている訳ですから。GTAどころかPostalを守るより難しい。GTAやPostalを規制しようという動きが出ても、同意も少なく、故にわざわざ反対する者も少ないという事態が、冷静になれば、状況の困難を語っている訳です。

表現としての死を望んでいるのか、と言われれば、そもそも死ぬとは思わないから望む理由もない、とお答えするしかないでしょう。この種のものは、社会がどれほどむきになって排除しても、絶対になくならないものです。誰かが必ず作るし、海外サーバーでも密輸でも、どんな手を使ってでも必ずどこかでは流通しますし、単純所持が禁止されても隠し持っている者は隠し持っているでしょう。秘かな期待もあります——単なるエロではなく(エロ物は、どんなにエロかろうとエロい限りは俗情と結託したサプリメント的なものです——そこを越えようと思ったら、表現としての余程の精度が必要になる——そしてそうなったら、もう純粋な意味での、サプリメント的なエロではない)、エロを破壊するようなエロ、エロを求めて来た者が直面した途端顔面蒼白になるようなエロ、エロいどころかディープな愛好家でさえどん引きするような、気分が悪くなるような、或いはあまりのことに笑いが止まらなくなるような、当分手を出す気さえしなくなるようなエロ、エロの記号性が吹っ飛ぶくらいの、故に全然抜けない、剥き出しの表現自体がごろごろ転がっていること以外何も目に入らなくなるようなエロが、いつかは生まれてくるのではないか、と。ただしそれでは商業的には難しいでしょう。故に私は、ジャンルが何であれ、商業にはあまり期待はしていないのです。

主人公が最後滅多突きにされて死ぬんだけど駄目? では話にもなりません。そういうのは悠久の昔から検閲潜りに多用されて、今や紋切型となったエンディングです。それをどう料理するか、が問題でしょう。それはもうやってる奴がどん引きするような——(以下略)

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2009.06.22

ホワイトハウスは全面禁煙だそうで、だったら庭に防弾ガラス張りの喫煙所を作って、時々オバマが来ちゃ一服しているところをwebcamで中継してくれたら面白い、と思ったが(で、時々職員がヤニ塗れのガラスを磨いているところも見られる——煙草の害を訴えるにはうってつけだ)、オバマは禁煙してしまった。今一番期待しているのは、無事任期を全うしたオバマが最初の一服を吸うところを見ることだ。美味そうに吸うだろう、きっと。

生葉巻よりお手軽かつ刺激的なトスカーノに走って以来、吸う量が増えている。真面目に仕事をすればするほど増える。で、吸いながら考える——ホワイトハウスが全面禁煙だったら、到底、キューバ危機は切り抜けられなかっただろう。

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2009.06.19

いやはや。鬱です——怖がっている女性どころか、現実に性犯罪の被害に遭った人が他の被害者たちを励まそうとその事実を公表して開いているサイトに押し掛けて、お定まりの「やってから言え」「二次元無罪」を言い立てる。悪質な書き込みに困って、せめてHNを、と求めると、人に名乗ることを要求するならお前が実名を名乗れ、と開き直る。揚句は性犯罪の被害者なのはわかったから、さっさとその事実を受け入れて忘れろ、レイパーを許し、エロゲを許せ、と平然と書き込む。そういう奴が現実にいるを見ると、鬱にならずにいるのは至難の業です。擁護派の全てがそうだとは思いませんが、この国では強姦は罪ではないらしい——少なくとも罪に問うのは不当だと言う通念が相当に広く存在しているのは間違いなく、罪としても精々窃盗程度というのが常識として受け入れられているらしい。被害者側の、死にはしなかったが殺されたも同然と言う感覚とは到底折り合わない。犯罪であることは知ってますよ、当り前でしょう、陵辱ゲームの箱にだってちゃんと書いてある、と擁護派が嘯いても、所謂「棒読み」にしか見えない理由はそこにあります。

二次元無罪なら、性犯罪の被害者に二次被害三次被害を与えることだって無罪だろうさ。傷を負わせたのは心だけです、心は存在しないから被害者はいません、って、お前らリアルで鬼畜だな。

或いは、

そういう発言をすること自体が強姦に準ずる行為なんだよ。まさかそれで抜いてるんじゃあるまいな。

というところですか。

いずれにせよ最悪の状況はこうです——「表現の自由」や「性の尊重」といった、人類が長い時間を経て曲りなりにも(一部の国では借り物としてでも)達成してきたものが陵辱ゲーム擁護に利用されると、当該ゲームによって人間としての尊厳を蹂躙されていると感じる側は、そうした達成自体に不信感を抱かざるを得なくなる——これ自体は当然、「スターリニズム」ではありません。ただしおっしゃるところ以上に広範な「スターリニズム」の温床となる可能性はある——もし「表現の自由」や「性の尊重」が自分たちを傷付けることに利用されるなら、そんなものは必要がない、と。近代の獲得してきた価値によって逆に辱められ排除された人間にとっては、そうした価値が覆され打ち壊されることは諸手を上げて歓迎すべき事態となる——その時に来るのは、それこそ「スターリニズム」かもしれない。そうでなくても、この世が炎上するのを見たい、という空気が充満する中では(告白するなら、私自身も三日に一度くらいはそういう願望に取り憑かれることはあります——例えば、冒頭で挙げたブログを読んだ後などは)、「スターリニズム」は社会の至るところで——場合によっては正反対の筈の場所で同時に——待望されている訳ですから。

政治はそういう時にこそ介入すべきなのだ、というのが、私の規制論である訳ですが、勿論、ここにはひとつ、意図的に外した問題があります——つまりその場合の政治とは、現実に存在するあの政治この政治ではなく、理念型としての政治です。つまり、近代の達成である諸価値を体現するものとして統治する政治、であり、その権限を、同じ諸価値を前提として共有する市民によって、市民の意思を代行する者として、委託されている政治、である訳です。

残念ながら、そんな政治権力は地上のどこにも存在していない。私が知る限りではサルコジ以前のフランスでさえ、近代が獲得してきた価値観を体現する——ことになっているエスタブリッシュメントが、フランス以外の国の感覚からすれば相当な強権をふるって統治していたという感があります(正直、フランスの官憲とだけは揉めたくありません——9.11以後のアメリカで問題になった類のセキュリティは、二十年前でも普通に行われていた国ですから。ロンドンの地下鉄テロのような事態は、フランスではほぼ確実に、起こりえない)。支配の正統性は、一般市民と彼らがその価値観において一致している筈だと言う前提において保証されていた。2005年の暴動とそれに続く社会運動は、この前提がかなり微妙になっていたことを示していると私は見ていますが、それはまあ余談です。sk-44氏の反論は、その意味では、妥当です。日本における統治は、ましてそんなものではない——そもそも近代が獲得してきた諸価値とやらを本当に前提としているかどうかさえ怪しい——故に政治権力の介入は、いかなる事態においても、避けるべきだ、というのは、現実に照した場合には全くその通りでしょう。そのような政治権力に「公」と「私」の区別を任せるのは論外、という点でも。

とは言え。

凌辱ゲームを表象として読み解き、その政治的原罪——差別の構造にただ乗りして人口のある部分を「殺されても罪には問われないもの」だと喧伝している——を指摘し、以て社会的合意を形成するのは(当然、次に来るのは合意の浸透による表現自体の自然消滅でしょう)、理論的には正しいとしても、それもまた理念型としての「あり方」に過ぎないのではないか、という疑念は付き纏います。実際の製作者の方が、消費者の一歩先に出ようとする努力によって凌辱表現そのものが解体されていく可能性を奪わないで欲しい、と書いていたのを見たこともありますが、それもまた理念型としての「あり方」です。どちらも不可能ではなく、むしろ望ましい方向だとは思います——もし、時間が無限にあるならば。

現実には、時間は限られている。特に、凌辱表現の横行によって脅かされた者が、自分を「殺しても罪には問われない」という烙印を押された人間と規定し、この社会の全面的な崩壊を密かに待望するところに追い込まれるまでの時間は、絶望的なまでに短いでしょう。私はそうした人たちをまず救うこと——この社会はそうした人々が十全な尊厳を保って生きていくことができる場所であると示すこと、を優先的に考えざるを得ない。官製の、実際には性差別の構造を何程変える訳でもない、そもそもの目的はそんなところにはない(表で踊っているのは道化だけであることは皆様先刻ご承知の通り)規制さえ、その役には立つ。ただし、そうした手っ取早い策にも勿論問題はある訳です。

となれば、仰る通り、ゾーニングの現在以上の強化が、暫定的には一番現実的な策となります。特別税を課す、という提案をしておられた方もいたと思いますが、それもありでしょう。「表現の自由」派の弁護士の方で、国ではなく各自治体の条例で規制、という案を出していた方もいた筈です——確かにこれは素早く動くでしょう。いずれも、何らかの方法で流通を絞る、ということになります。アメリカ在住のどなたかが書いておられた、そういう場面が来ると必ず長々とでかい字で警告が入る、というのもありでしょう。NaokiTakahashi氏は、ゲームとして拙い、とコメントしていたと思いますが、確かに表現として考えた場合にはとんでもないことながら、これはもう致し方ない。

その上で、表象を読み解くことによって、単なる凌辱表現の是非を超えた差別の構造そのものを問題にしていくことは、勿論必要なことです。この国の国家権力が国民の意思を代行した例などないのと同様、この国の批評が業界御用達でなかった例などないのもまた事実ですが、幸い、業界の外で幾らでも批評することが可能になったのが昨今ですから。


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«2009.6.18